著者年譜

ジーン・ウェブスター Jean Webster

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出来事
1876年 七月二四日、ニューヨーク州フレドニアでアリス・ジェイン・チャンドラー・ウェブスターとして生まれる。母アニー・マフェットは国民的作家マーク・トウェインの姪。父チャールズ・L・ウェブスターはトウェインのマネジメントなどを務めるビジネス・パートナーであった。
1881年 5歳 家族でマンハッタンに移る。
1884年 8歳 『ハックルベリー・フィンの冒険』刊行のために、トウェインと父がチャールズ・L・ウェブスター出版社を設立。
1885年 9歳 トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』が大成功を収め、一家は大きな収入を得る。
1887年頃 11歳 出版社の経営状態は悪化していく。父チャールズは頭痛や神経痛などにさいなまれ、仕事に支障が出始める。
1888年 12歳 トウェインはチャールズ保有の株式を買い取り、チャールズを会社から追放する。チャールズの療養のために一家でフレドニアに戻る。
1891年 15歳 父チャールズが薬物の過剰摂取により三九歳で死去。
1894年 18歳 アリス、ニューヨーク州南部のビンガムトンにある寄宿制学校レイディ・ジェイン・グレイ・スクールに入学。ルームメイトの名前が同じアリスだったことから、「ジーン」に改名する。
1897年 21歳 ニューヨーク州の名門女子大ヴァサー・カレッジに進学。経済学と英文学を専攻する。大学で学ぶうちに、次第に貧困問題や社会改革に関心を寄せるようになる。
1899年 23歳 大学の広報活動の一環として、ジーンが「ポキプシー日曜新報」に「女子大生のおしゃべりコラム」を連載することになる。学友と共にフランス、イギリス、イタリアを旅行。イタリアでは卒業論文のために当地の貧困を調査する。
1901年 25歳 学内新聞「ヴァサー・ミセラニー」に短篇「ヴィラ・ジアンニーニ」を発表。七月、ヴァサー・カレッジを卒業。卒業アルバムの編集委員も務める。卒業後は故郷フレドニアに戻る。
1903年 27歳 3月、寄宿制学校と大学時代の体験を元に〈女子大生のおしゃべり〉的な文体で書かれた小説『パティ大学に行く』を出版。年末から六週間、イタリアに滞在し、第二作『小麦姫』を執筆。
1905年 29歳 『小麦姫』刊行。「小麦王」として知られるアメリカの財閥の娘マルシア・コプリーが、イタリアでアメリカ人外交官の男性と出会い、彼からイタリアの小麦農家の人びとの貧困と彼らが起こす暴動について教わることによって、社会を観察する目を養っていく成長物語。第一作同様、軽い読み物として書かれているが、ジーンの社会改革への関心が色濃く織り込まれている点に第一作との違いが見られる。
1906年 30歳 大学時代の友人エセリン・マキニーら5名と世界旅行に出かけ、翌年にかけてエジプト、インド、インドネシア、中国、日本などをめぐる。日本では日光滞在を楽しんだと言われる。
1907年 31歳 『ジェリー・ジュニア』刊行。イタリアのホテルに滞在する若いアメリカ人男性ジェリー・ジュニアの異国での経験とロマンスをコメディ的に描く小説。刊行後、「ウェブスターにはシチュエーション・コメディ(同じ登場人物で毎回違った場面やエピソードを扱う連続ホーム・コメディ)を書く才能がある」との書評が複数書かれた。
1908年 32歳 『フォープールズ・ミステリー』刊行。アメリカのヴァージニア州のフォープールズ・プランテーションを舞台に起きた事件をめぐる探偵小説。また、大学時代の友人エセリン・マキニーの兄でスタンダード・オイル社跡取りの妻子ある男性、グレン・マキニーとの交際が始まる。
1909年 33歳 『ピーターの空騒ぎ』刊行。1903年のイタリア滞在時に現地の「階下の人びと(召使い階級)」の生活を観察した経験を元に書かれたコメディ・タッチの短篇小説四篇から成る一冊。
1911年 35歳 『パティ大学に行く』の前日譚となる『ジャスト・パティ』刊行。
1912年 36歳 『あしながおじさん』が中流階級の主婦向け雑誌「レイディーズ・ホーム・ジャーナル」に連載される。一〇月、センチュリー社から単行本が刊行され、一躍ベストセラーとなる。
1913年 37歳 『あしながおじさん』をみずから戯曲化。翌々年にかけて全米をめぐる公演ツアーが組まれる。
1915年 39歳 グレン・マキニーの離婚が成立し、九月にジーンとグレンは結婚する。カナダを新婚旅行中にセオドア・ルーズヴェルト元大統領を訪問。一一月、『あしながおじさん』の続篇『ディア・エネミー』を刊行。ジュディ・アボットの親友サリー・マクブライドがジュディに宛てて手紙を書く書簡体小説の体裁をとるこの小説では、結婚したジャーヴィス・ペンドルトンとジュディ・ペンドルトンがサリーをジョン・グリア孤児院の院長に任命し、その改革を任せるという設定になっている。最初は戸惑うものの、孤児院を実際に訪れてその環境のひどさや政治家の意識に憤ったサリーは、真剣に改革に取り組んでいく。
1916年 六月一〇日に長女を出産。翌一一日に産褥熱により死去。長女にはジーンの名がつけられた。