
ここに再録したのは、1985年4月、当時は西新宿にあった演劇集団「円」の稽古場・兼・小劇場「ステージ円」で、私自身が訳・演出した『リア王』を実例に、その意図や方法論を、できるだけ具体的に説明した文章である(出演はリアが仲谷昇、道化が橋爪功、グロスターは故・有馬昌彦ほかだった)。本訳書の背後にある『リア王』上演の経験や作品の解釈、さらには演劇全般から演出、演技、あるいは翻訳にたいする考え方を一層くわしく知っていただくためには、直接、大いに参考になるのではないかと考え、ここに再録することにした。これを収めた演劇論集、『彼方からの声』(2004年、筑摩書房)も、あわせて読んでいただければ幸いである。
日本でシェイクスピアを上演するにあたって、まず最初に直面する問題、しかも、おそらく一番難しく、同時にまた、ある意味ではもっとも重要な問題は、 やはり翻訳の問題だろう。これは、われわれにとってはほぼ自明のことに思えるのだが、英米をはじめ、外国の学者や批評家が日本のシェイクスピアを論じる時、個々の上演を具体的に取り上げる場合ですら、翻訳の問題は度外視してしまうのが通例である。なるほどこれは、ある程度は避けられぬことかもしれない。というのも、こうした学者や批評家たちは、ごくひとにぎりの例外的な場合を除いて、日本語を知らない---少なくとも、翻訳上の微妙な問題を論じることができるほど、充分な日本語の知識を持ってはいないからである。しかし、だからといって、この問題の重要性が減じるわけのものでもなければ、難しさが消えてなくなるわけでもない。
一般に翻訳は、なかんずく詩を翻訳しようとする場合、どれほど巧妙精緻を凝らしてみても、所詮は原文の色褪せた模造に終わらざるをえないものだが、特にシェイクスピアを日本語に訳すとなると、言語的にはもちろん、演劇的にも文化的にも、社会的、歴史的な背景の違いはあまりに大きく、難しさは絶望的と言うほかない。シェイクスピアの言葉の力強さと繊細さ、その深さとゆたかさを、そのまま日本語で再創造することなど、端的に言って不可能なのだ。日本の演出家はこうして、翻訳の結果みじめにも衰弱したテキストを用いて仕事するしかない。最初から、決定的なハンディキャップを負って出発するしかないのである。
けれども、こうした絶望的なハンディキャップを克服する方法も、まったく見つからないわけではない。まず第一に、舞台上の視覚的効果を最大限に動員し、言語という表現の媒体を、いわばバイパスすることによって、演劇的というよりは、むしろ劇場的な説得力を強化し、膨張させて、弱体化したテキストを、強引に補強することも可能である。いわゆる蜷川シェイクスピアなどは、こうした手法のもっとも目ざましい実例の一つだろう。この方法は、確かに相応の効果を挙げることは、やはり認めておかなくてはならない。英語圏(特にイギリス)のシェイクスピア上演では、シェイクスピアの原文という、いわば有難迷惑な足枷をはめられているために、良かれ悪しかれ、圧倒的にテキスト中心となる傾向が強く、本来シェイクスピアのうちに潜在している非言語的次元の可能性には、それほどの関心を示すことは少ない。ところが、蜷川演出は、少なくとも結果的に、この次元がどれほど強力な可能性を孕んでいるか、顕示して見せることによって、皮肉にも、イギリスで高い評価を得ることになったのである。
けれども、翻訳の突きつける難題を克服するには、これとはまったく違った方法もなくはない。言語的な次元自体の中で、隘路を乗り越える方途も、必ずしも皆無ではないのである。
演劇テキストの翻訳では、劇以外のテキストの場合とは、おのずから別のアプローチが可能である----というより、むしろ不可欠である。というのも戯曲は、それ自体で自己完結した言語的構造物ではないからだ。劇のテキストは、そこに封じ込められている演劇的、ないし劇場的な経験の記号であって、肝心なのは、この経験にほかならない。音楽の比喩を借りて言えば、大事なのは譜面ではなく、あくまで音そのものなのである。とすれば、演劇テキストの翻訳で目指すべきは、字義的な意味の伝達ではなく、この潜在的な劇的経験を再現することでなくてはならない。そのためには、場合によって、字義的な意味を犠牲にすることも許される---どころか、時には不可避ですらありうる。比喩とか引喩そのほか、さまざまな修辞上の表現技法も同じことだ。肝要なのは、劇的経験にとって必須なものと、付随的、末梢的なものとを注意深く選り分け、さらにはまた、エリザベス時代のイギリスと現代の日本との言語的、文学的、演劇的、あるいは文化的背景の違いを入念に吟味した上で、時によっては大胆な調整をあえて行ない、シェイクスピアのテキストに封じ込められているはずの劇場的経験を、できる限り生き生きと、ジカに、今日の日本の舞台の上に再創造することに尽きるのである。・・・・・・・続く

