齋藤敦子さんが去る4月27日、ご病気のため亡くなられました。ここに謹んでご冥福をお祈りします。
連載の2回目(Chapitre2)の準備をしている間のことで、関係者の方が訃報をお伝えくださいました。
追悼の意味も込めて、生前、齋藤さんに内容をご確認いただいた第2回原稿をここに掲載することにいたしました。また、最終回として追悼回を掲載する予定です。
前回は、静岡での子ども時代、奈良での大学生活を経て、フランスの映画学校での留学時代についてお話しいただいた。留学も4年目となり、そろそろ仕事探しをというタイミングで、お母さんが倒れたという知らせがきた。「これはもう日本に帰らないといけないなと、吹っ切れました」と語る齋藤さん。帰国後、映画の世界につながる出会いについては、フランスでの出来事も関係している。もう少しパリでの日々をお聞きしてみよう。
齋藤敦子さんプロフィール
さいとう あつこ フリーの映画評論家、字幕翻訳家。字幕翻訳作品は、『冬の旅』(1985制作)、『五月のミル』(1990)、『コックと泥棒、その妻と愛人』(1987)、『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015)、『記者たち~衝撃と畏怖の真実~』(2017)、『EDEN/エデン』(2014)、『山逢いのホテルで』(2023)ほか多数。2025年末にロードショー公開され一部映画館で上映中作品に『グランドツアー』(2024)『ペンギン・レッスン』(2024)がある。(末尾に詳細情報あり) 出版翻訳では、『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン著、新潮文庫(1993)、『シネマメモワール』ピエール・ブロンベル著、白水社(1993)、『カストラート』アンドレ・コルビオ著、新潮文庫(1995)、『世界の映画ロケ地大事典』トニー・リーヴス著、晶文社(監訳、2004)ほか。 フロリアン・ゼレールの戯曲〈息子 le Fils〉の翻訳で第14回小田島雄志翻訳戯曲賞受賞(2021年)。
〈構成・文 大橋由香子〉
前回はこちら〈Chapitre1〉将来は外国に行きたいな、と思う映画好きな少女
〈Chapitre2〉
映画づくしのパリの日々と雑誌での執筆が、次の道へつながる
1983年5月、齋藤さんは第36回カンヌ映画祭に出かけた。パリコレの下働きのアルバイトをして旅費を作り、カンヌにある語学学校に通う日本人に紹介してもらった下宿屋を確保した。映画学校の試験期間直前だったが、「せっかくフランスにいるのだから1回は行ってみよう」と出かけた。ちょうど『戦場のメリークリスマス』がコンペティション部門に出品された年だ。
「とにかくその年の映画祭はすごくて、タルコフスキーやロベール・ブレッソンを生で見られて、映画祭ってこんなに楽しいんだ!って感激してパリに帰ってきたんです。そうしたら映画学校の先生に『試験の大事な時期になんで休んだんだ!』とすごく怒られちゃいました。でも、行ってよかったです」
その頃、齋藤さんは月刊『イメージフォーラム』(ダゲレオ出版)という雑誌に、パリ通信や映画紹介を書いていた。きっかけは上の兄のアドバイスだった。
「せっかくパリにいるのだから何か書きたいと兄に手紙を書いたら、『イメージフォーラム』という映画雑誌ができたから手紙書いてみたら?って言われたんです。それで手紙を出したら、その時の編集長の服部さんという方から、じゃあ何か書いてみてくださいって言われて、それで書くようになりました。おかげで、『イメージフォーラムの記事を読んでるよ』と声をかけてくれる方もいらして、考えてみればありがたかったですね」
最初はパリで観た映画紹介を寄稿し、やがて「週間日記――シネマテークとその周辺 FORUM JOURNAL◉パリ通信」というタイトルの連載になる。そして、1983年8月号(35号)では、連載とは別枠で巻頭に「カンヌ映画祭レポート」が掲載された。
カンヌ映画祭では、ヘラルド映画社など日本の映画関係者とも知り合うことができた。 フランス映画社の柴田駿(はやお)さん、妻で副社長の川喜多和子さんの姿をお見かけしたが、挨拶をする機会はなかった。
ところがその後、突然、柴田さんから電話がかかってきた。柴田氏がベネチア映画祭の帰りの飛行機で、チリの監督ラウル・ルイス氏と偶然会い、これからパリで会うので来ないか?というお誘いだ。パリの映画館で見たその監督の作品について齋藤さんが書いた『イメージフォーラム』の記事を読んでのことだろう。
「『はい、行きます!』って答えました。若かったから、怖いもの知らずですね(笑)。ところが、指定されたお二人の宿、シャンゼリゼにあるセルティックというホテルのカフェテリアに行ったら、柴田社長はいらっしゃらず、ラウル・ルイス監督が一人でビールを飲んでいたんです。『えー?』と戸惑いながらも自己紹介をして一緒に座って話をしていたら、川喜多和子さんが『あ、ごめんごめん、遅れちゃった。先に話していてくれて良かった』と言いながら入ってきて。結局、柴田さんとはパリでは会わないまま。それがフランス映画社というか、川喜多和子さんとの出会いです」
『イメージフォーラム』編集部、そしてフランス映画社へ
1984年2月、齋藤さんは久しぶりに日本に戻ってきた。『イメージフォーラム』のまだ直接は会ったことのなかった発行元のダゲレオ出版編集部に挨拶にいった。ちょうど、タルコフスキー監督の『ノスタルジア』の試写会をしていたので、映画評論を書くように頼まれ、齋藤さんはさっそく試写会の会場に行く。
するとそこで、川喜多和子さんにバッタリ再会した。川喜多さんは、ちょうど退職者がいるのでフランス映画社に来ないか、と齋藤さんに声をかけた。ダゲレオ出版の社長・富山加津江さんと川喜多和子さんは仲がよかったので、齋藤さんが日本に帰ることを富山さんから聞いていたようだ。
「また会ったわね、という感じで和子さんに誘われて、すぐに決めました。母のことが心配で日本に戻ってはきましたが、一度も社会に出ないうちから実家で介護生活に入っていいのか?という気持ちもあったので、仕事の話はありがたかったです。 とりあえず社会人としての生活を東京でやらせてもらい、週末は介護に帰るみたいな形で、フランス映画社に勤めることにしました。なかなか介護との両立はうまくはいきませんでしたが」
フランス映画社では宣伝部の仕事をした。買い付けは社長と副社長が担い、日本での上映が決まった作品を宣伝する業務である。
「宣伝部には先輩の森遊机さんがいて、ようやく後輩が入ってきたと喜んだら、歳上の私だったからガッカリしたようです(笑)。フランス映画社では宣伝の仕事を一から教えてもらいました。
印象に残っていること? そうですね、プレス用資料のストーリーを書かされたことかな。映画評論家によっては、試写会の途中で居眠りをするとかで、ストーリーがわからなくなる人もいるので、必ず最後までしっかり書けと言われました。今から振り返ると、試写してストーリーを書く作業は勉強になりましたね」
上映することが決まった作品の字幕関係の担当は川喜多和子さんで、翻訳者やラボとの連絡や調整などをしていた。
字幕をつける前には「ハコ割り・ハコ書き」という大事な作業がある。セリフだけを抜き出した台本をもとに、画面での役者に合わせてセリフを区切っていくこと。これは字幕翻訳者がすることが多い。さらに、このハコ割りをもとに、映像のどこでセリフが始まり(in)、どこで終わるか(out)を示すスポッティング・リスト(スポリス)も必要になる。スポッティング・リスト作りは日本シネアーツ社やイマジカなど、字幕制作会社が行う。俳優がセリフを話しているタイミングに合わせて自然に字幕が映るためには、こうした作業が存在している。
「まだ字幕専門の原稿用紙を使っている時代で、原稿用紙を翻訳者に渡す前に番号を振ってスポリスの尺の長さを書き入れたり、翻訳原稿のチェックなどをしたりすることもありました。フランス語の字幕翻訳者は、昔は秘田(ひめだ)余四郎さんが有名ですが、フランス映画社では主に山崎剛太郎さん、英語は清水俊二さん、戸田奈津子さん。例外は『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』でシェイクスピアの第一人者の小田島雄志さん、小説家の池澤夏樹さんはテオ・アンゲロプロス作品専門の字幕翻訳家です」
鎌倉市川喜多映画記念館2023年の企画展「BOWシリーズの全貌―没後30年 川喜多和子が愛した映画」におけるトークイベント3回目「フランス映画社での仕事、川喜多和子という人」では、森遊机さんと齋藤敦子さんの対談が行われた。対談の概要がサイトに紹介されていて「森さんの記憶では、『グッドモーニング・バビロン!』のメイン写真のコマのチョイスは齋藤さんの労作と和子が語っていたそうです」とある。 (詳しくは下記サイトをお読みください。スクロールしていくと最後に3回目があります。)
トークイベントで振り返る企画展「BOWシリーズの全貌―没後30年 川喜多和子が愛した映画」
「頭がうまくいっていればいい」=字幕は冒頭が大事
齋藤さんが翻訳という作業をしたのも、フランス映画社にいたときが初めてだという。
ある時、雑誌に掲載された映画監督のインタビュー記事を、「これ、フランス語から日本語に訳しといて」と言われた。「え?」と戸惑った齋藤さん。
「私、フランス語の文章を訳したことがなかったんですよ。フランスにいる頃は、別にフランス語から日本語に翻訳する必要はないんですよ、フランス語で理解すればいいんですからね(笑)」
確かに! その言語が読めない、理解できない人のための作業が翻訳なのだと、あらためて気づかされる。
昨2025年3月には鎌倉市川喜多映画記念館で「映画字幕翻訳の仕事」展があった。フランス映画社のノートや、試写スケジュール表、『狩人』の初号試写(無字幕)の案内状が展示されていた。ノートには出席者名が手書きでメモされていて、齋藤敦子さんのお名前も記されていた。マスコミや評論家向け試写会の前、海外からフィルムを国内輸入する前の保税試写(保税上映)という段階があり、フィルムの状態などのチェックをした。まだ輸入されていないフィルムなので、その試写会に出席する関係者の名前を書く必要があったのだという。
フランス映画社で働くうちに、字幕翻訳をする機会があった。
映画館のシャンテ シネ(Chanter Cine)がオープンする時、フランス映画社は柿落としで、タヴィアーニ兄弟監督『グッドモーニング・バビロン!』を、東宝東和はエリア・カザン監督の『紳士協定』というクラシック映画を出すことになった。『紳士協定』が上映されるなら、フランス映画社としては、レイトショーで『エリア・カザンの肖像』も上映しようとなった。柴田社長は「君、やってごらん」と齋藤さんに言った。
「『エリア・カザンの肖像』は、ミシェル・シマンというフランスの有名な映画評論家が、フランスのテレビのために撮ったドキュメンタリーです。フランス映画社としては 『グッドモーニング・バビロン!』の宣伝で忙しいし、それほど経費もかけられないから私にやれと言ったんでしょう。
実はその前にも、ヴィム・ヴェンダース監督がニコラス・レイを訪ねるドキュメンタリー作品、Nick‘s Movie/Lighting Over Water(『ニックス・ムービー/水上の稲妻』1980)の字幕をやるように言われて、一通り訳したことがありました。でもその翻訳について、ダメと言われたのですが、どこがどうダメなのかは何も言われず、結局、たぶん版権が買えないか何かの理由でそのままになって……。
それで、次の『エリア・カザンの肖像』が私の字幕デビューになりました。この時は、柴田さんが私の翻訳の最初の頭のところをチェックして、『ここはこういうふうにしたほうがいいよ』と少し直して、それで終わりでした。頭さえちゃんとしていれば後は大丈夫、冒頭の、映画の道筋をつけるところが一番大切で、それがうまくいっていればいい、と。あまり教えることをしない柴田さんだったけれど、『頭がうまくいっていればいい』という教えはずっと強く生きています。その後、アニエス・ヴァルダ監督の『冬の旅』*の時には、もう喧喧諤々やりました」
*『冬の旅』原作は1985年。同年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞。1991年にフランス映画社が配給して日本公開。2023年にザジフィルムズ配給で再公開された。
銀座2丁目にあったフランス映画社は日本映画の配給もしていたので、日本人の監督もよく会社に来ていた。大島渚監督もよく来ていたという。
副社長の川喜多和子は、川喜多長政と川喜多かしこの娘で、子どもの頃から両親と共にヨーロッパの映画祭に行き、15歳でイギリスに留学していた。
「和子さんはジャン・ルノワール監督に会ったこともある、ほんとに映画の申し子みたいな、とんでもなく映画の蓄積がある人です」
そんなフランス映画社で働いてきて、齋藤さんはやがて「もうここじゃないところで仕事をしていこう」と思うようになる。1990年ごろ、フリーランスになった。

『イメージフォーラム』1983年8月号の巻頭には「カンヌ映画祭レポート 映画とハンバーガーの日々」が10ページで掲載された。「昨晩メトロの中で現金入りの証明書入れをすられてしまったのに朝気がついて呆然。」と始まり、カンヌで見まくった数々の映画の批評にカンヌの光景が混じり合う魅力的な記事。
『イメージフォーラム』1983年9月号の連載には「六月一八日(土)最後の授業。そのあとむかいのカフェで皆と乾杯。あとは試験を残すのみ」とあり、雑誌末尾の執筆者紹介という名の近況報告欄には「風邪に悩ませながらもようやく学年末試験も終え、来年秋からの監督コースに登録しました」とある。この時は、映画学校のコースを延長して、パリ滞在を続ける予定だった。
1983年12月号の「週間日記――シネマテークとその周辺」では、柴田さん川喜田さんがラウル・ルイス監督に会わせてくれたエピソードも紹介し、「ルイスは実にもの静かな紳士でした。皆さん!来春、ルイスの映画が日本でみられるかもしれないのですゾ!」と書いている。 日本に帰国しパリ通信の連載が終わっての1984年6月号では、「高円寺に居を構え、旺盛に映画を見ている。最近パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』に大感激‼︎」と記されており、東京での新しい生活がスタートしている。この号には、ジャン=リュック・ゴダール監督記者会見(1983年9月8日ヴェネチア映画祭にて)音声テープから、齋藤さんが翻訳した記事が掲載されている。
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者インタビューを手がけ、光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。光文社のウェブ連載「“不実な美女”たち−女性翻訳家の人生をたずねて」 に加筆、書き下ろしも含めた『翻訳する女たち 中村妙子・深町眞理子・小尾芙佐・松岡享子』(エトセトラブックス)刊行。他の著書に『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパク ト出版会)、編著に『わたしたちの中絶』(石原燃と共編、明石書店)ほか。