2020.11.06

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.4 吉岡芳子さん〈イタリア語〉episodio1

ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さんと、映像の字幕翻訳に携わる女たちへのインタビュー・シリーズ第4弾は、イタリア語の吉岡芳子さんにご登場いただきます。

2020年春、新型コロナウィルスの影響で人と会うことも憚られ、会議やイベントはオンラインになっていきました。「打ち上げが楽しみで仕事するのに、打ち上げどころか、打ち合わせもできないのよね」とおっしゃる吉岡さん。外出自粛が少しずつ緩んできたある日、吉岡さんにとっても(私にとっても)久しぶりの「生インタビュー」を(おそるおそる)敢行いたしました。

なぜ、イタリア語や映画に惹かれていったのか、イタリア映画の魅力、そしてデジタル化される前、フィルム時代の映画字幕についても語っていただきます。

1回目 episodio1は、「外国に行きたい」と思っていた子ども時代のお話から。

吉岡芳子さんプロフィール

吉岡芳子さん

よしおか よしこ  1951年東京都生まれ。早稲田大学日本文学科卒業。外資系企業への勤務、イタリア留学を経て、イタリア語字幕翻訳者へ。主な字幕翻訳作品に、タヴィアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』『カオス シチリア物語』、ベルトルッチの『1900年』『暗殺の森』、フェリーニの『甘い生活』『81/2』『女の都』、トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』、オルミの『ポー川のひかり』など。訳書『マリア・カラス 情熱の伝説』(クリスティーナ・H・キアレッリ著、新潮社)、『ライフ・イズ・ビューティフル』(ベニーニ、チェラーミ著、角川書店)他。著書『決定版! Viva イタリア映画120選』(清流出版)。

〈構成・文 大橋由香子〉

episodio1 とにかく“外国へ行きたい!”が子どもの頃の望みだった

吉岡さんは東京都荒川区で生まれ育った。まだ“マンション”という言葉すらなかった時代。平屋か二階建ての木造の家が「ごちゃごちゃと」並び、庭のある家などほとんどなく、夏はどの家も窓が開けっぱなしなので、隣の家の夫婦喧嘩も丸聞こえ。いわゆる“向こう三軒両隣”。町内のみんなが顔見知りという環境で育った。

「小学校では授業が終わると、生徒はひとまず家へ帰ってランドセルを置くと、また小学校へ戻って、日が暮れるまで校庭で遊んでいました。校庭には鉄棒と砂場くらいしかなかったと思う。どんな遊びをしたのか憶えていないけど、なんとなくワァーワァー楽しかったみたい……」

下町の助け合いネットワークのおかげで

荒川の向こう岸におばけ煙突を眺めながら、友達と遊ぶ日々。下町の子どもの大きな楽しみは“駄菓子屋さん”だった。10円玉、5円玉を握りしめて、おやつを買いに行く。だが、吉岡さんは身体が弱かったため“買い食い”は禁じられていた。

「ある時、『もんじゃ食べに行こうよ』となったのですが、『あ、芳子ちゃんダメなんだね。じゃあ遠くのお店に行こう、そうしたらバレないよ』とみんなが知恵をしぼってくれた。『歯にくっつくと食べたのわかっちゃうから、カリカリになったところだけ食べな』って気も使ってくれたりして。それで、バレないだろうと思って帰宅したら、『お前、どこ行ってたんだ!』と父親に叱られて。どうしてわかったのか……、これぞ“ご町内ネットワーク”ですよね。町中の大人が子どもを見守ってくれていたんでしょうね。ありがたいことだったと今は思うけど、子どもにとってはねぇ。“監視されている”感が強かったです」

お化け煙突
荒川左岸(北側)の土手から現千住桜木一丁目13番にあったお化け煙突(千住火力発電所の煙突の愛称名)を撮影したもの(1954年撮影。足立区立郷土博物館収蔵)

父親も地元密着の自営業だったので余計に、助け合いの精神が生きる地域共同体は、吉岡さんにとって息苦しさも伴なった。

「それで、小学校の卒業文集に『外国に行きたい』って書いているんです。何になりたいかではなくて。友達がお花屋さんや看護婦さんにあこがれている時に、“とにかく外国へ行きたい!”でした。」

当時は外国と言えばアメリカだった。“1日10ドルで大陸横断・グレイハウンド・バス”というパンフレットをどこかでもらってきて眺めていた。

テレビ番組「兼高かおる・世界の旅」も毎週見ていた。「あたくし、こう感じたんですのよ」という兼高さんの上品な語り口に、うっとりもした。

「そういえば、言葉について忘れられない想い出が二つあります。たぶん小学3年生くらいの時のこと。おばあちゃんと話していて“くぎ”と言ったら、『みっともないね。〈き‶〉じゃなく〈き゜〉だよ』と。つまり“鼻濁音”*を使えと。当時は何のことか分からなかったけど、わりと素直な子どもだったので(笑)言われたとおりに……。大人になって、歌舞伎や文楽、能など日本の古典芸能に接するようになって鼻濁音の美しさをしみじみ感じることになりました。
 もうひとつは、小学6年生のころ。私が手紙を書いているのを見たおじいちゃんが『お前は女のくせに、何という文字を書いているのか!』と、叱り口調なの。こっちは『???』。すると、『くずし字を書きなさい。女文字を』と。楷書で書いていたのね。学校ではそれしか教わってないし。小学6年生に“くずし字” ……。二人とも立派な学歴などない、ふつうのじいちゃん、ばあちゃんだったけど、これが明治生まれの“基礎体力”なんでしょうね。今になって感謝しています。あ、残念ながら、“くずし字”はついに書けずじまいですけど」

*鼻濁音について
国語研教授が語る「濁る音の謎」 (1) 鼻濁音(大西拓一郎教授)国立国語研究所 YouTubeチャンネルへ


さて、吉岡さんはその後、千代田区にある私立中学に入学した。クラスメイトのほとんどが“ご町内”の区立中学に進学する時代に、受験して別の区の私立中学へ行くのは画期的なことだった。

まわりは「すごいねぇ」と褒める中、“くずし字”のおじいちゃんは「そんな遠くへ行く手前に中学校はなかったのかい?」と一言。

「まわりはギャフンですよね。あ、この言葉も昭和ですね(笑)。そんな中1の時に、神原くにこ著『パンとぶどう酒と太陽と』大泉書店という本に出会いました。この著者は私より7歳上で、船でヨーロッパに渡って、1年かけてあちこちを回った記録なんです。羨ましくて羨ましくて、何度も何度も読みました。7年前に引っ越した時に、本もビデオも洋服も8割方は捨てたんですが、この本は大事にとっておきました」

本といえば、小学校高学年になると本を読む楽しさを知った。とくに好きだったのがジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や『海底二万哩』などだ。遠い国の想像もつかない環境の中で展開する、スリルたっぷりの冒険譚。「シャーロック・ホームズ」シリーズもお気に入りだった。「ちいさな手がかりをきっかけに犯人を推理していくホームズの“かっこよさ”にワクワクした」という。女子に人気のあった『若草物語』のような少女小説には「なぜか全く興味が湧かなかった」そうだ。

ラジオから聞こえてきたカンツォーネに魅了され

“外国へ行きたい”熱は収まるどころか、さらに高まっていった15歳の時、ラジオからカンツォーネの歌声が流れてきた。「世の中には、こんなきれいな言葉があるんだ!」と吉岡さんは一気にイタリア語に引き寄せられる。

当時、日本のラジオでは英米のポップスだけでなく、シャンソンやカンツォーネや、(外国)映画音楽を紹介する番組もあった。まだ見ぬ国から届く美しい調べに、吉岡さんの夢はどんどん膨らんでいった。“外国へ行きたい”は“イタリアへ行きたい”になった。

“あの美しい言葉を話すのだ”と心に決めて、イタリア語を学びたいと思ったが、当時、イタリア語学科があるのは国立の外語大学だけ。理数系が全く苦手な吉岡さんに、高校の先生は内申書すら書いてくれなかった。そこで、憧れの神原さんがいた上智のイスパニア学科(スペイン語)を受けたが、残念ながら不合格。しかし、早稲田大学文学部に合格し、日本文学科に進むことになる。イタリア語大好きの吉岡さんだが、実は日本語の美しさには“本能的に”魅了されていた。とくに短歌や俳句に日本語の底力を感じとったのだという。

「つまり、“人間の言葉”というものに惹きつけられていたんでしょうね」

さて、時は1969年春、学生運動まっさかり。東大の安田講堂を占拠した全共闘の学生たちに、機動隊は放水車や催涙ガスで応酬するという攻防があった。

「東大の入試が中止になった年だから、『あの騒動がなければ、東大に行っていたのに』と言える唯一の学年なんです(笑)。で、大学に通うようになりましたが、ロックアウトやデモや学生集会ばかり。でも、アジ・ビラを読んでも、集会に出ても、ついに何が何だか分からず。全くのノンポリで、授業には出ていましたが。
 映画研究会に入って、ひたすら映画を見ていました。早稲田松竹の3本立てや、飯田橋佳作座、日劇アートシアター等々、映研の友達の友達の自主制作映画なども。入学直後に観たのがパゾリーニの『奇跡の丘』で、映画の魔力にぶちあたり、椅子からずり落ちるくらいの衝撃でした。だって、イエス様が黒髪で眉がつながっていたんですから。パレスチナの人だから当然なのですが、キリスト教系中学高校で“イエス様は金髪・青い目”だと思い込んでいたもので。愕然としましたね」

パリではゴダール、トリュフォーらがヌーベル・ヴァーグを牽引し、イタリアでは、デ・シーカ、アントニオーニ、ヴィスコンティ、フェリーニ、パゾリーニ、ベルトルッチがそれぞれの場を得て活躍していた。当時の「日劇アート・シアター」のプログラムは、今も大事な宝物だ。

吉岡さんの映画好きは、両親の影響が大きい。

「母はエルヴィス・プレスリーのファンで主演作は必ず観に行っていました、私を連れて。それで、私も中学生にしてエルヴィス・ファンになり、日本中がビートルズの出現に大騒ぎしていた時も、『エルヴィスの“love”の発音のほうが1000倍ステキ!』とひそかに思っていました。『「気狂いピエロ」面白いわよ』 と教えてくれたのも母で、それがきっかけで有楽町の日劇の地下にあったアートシアターに通うようになったのです。
 父は小津安二郎が大好きでしたね。『秋刀魚の味』とか『晩春』とか。あと、落語も好きで。ラジオやテレビでも寄席番組をけっこうやっていたので、家族みんな(両親、私、弟と妹)で楽しみました。志ん生、文楽、小さん、志ん朝……寄席に連れて行ってもらえなかったのが残念至極です」

さて、落語を楽しみつつもイタリア熱の冷めない吉岡さんは、九段下のイタリア文化会館でのイタリア語講座をみつけ、通うようになる。通い始めて2年後、“ローマに1ヶ月滞在してイタリア語を学ぶツアー”の開催を知り、どうしても行きたくなった。父親に「結納金も何もいらないから」と頼み込み、30万円を出してもらった。

当時イタリアへの直行便はなく、アンカレッジ経由のパリ行きだった。生まれて初めての“外国”は、フランスとなった。

「7月末の早朝のパリ。バスでホテルへ向かう途中、果物屋さんの店先にオレンジが、それはきれいに並んでいたの。あのオレンジ色は今も鮮明に甦るわ。もう半世紀も昔のことなのに……」

宿泊先は“川沿い”の古色蒼然たるホテル。なぜかガイドブックも地図も持っていなかったが、部屋で一息して出掛けてみた。とりあえず、目の前の大きな川を渡ると、これも古い威厳のある建物がある。人々がどんどん入って行くので、つられて入って行くと、絵画や彫刻がゆったりと展示してある。

「あれ?? と、ずんずん進むと、壁にちいさな肖像画が・・・「え?モナリザ?」。そう、そこはルーブル美術館でした!“大きな川”はもちろんセーヌ川。ほんと、“バカ気の至り”だわね」

ちなみに、“古色蒼然たるホテル”はベルトルッチの「暗殺の森」の冒頭に登場するホテルだったことを、ずっと後になって知ったそうだ。

「当時パリでは、英語はまったく通用しませんでした。外国人の多いホテルでもフランス語のみ。フロントでルーム・キーを貰うのにも、フランス語で言わないと貰えない。部屋は472号室。フロントマンが何度も繰り返すのを聞くうちに分かったの。『472は、フランス語では400(quatre cents)・60(soixante)・12(douze)という言い方をする。それで“カトーさん・スワさん・どーぞ”と言うと、ルーム・キーを渡してくれたの! 」

パリから列車に乗り、ミラノ経由でローマへ。

「ローマに着くと、街並みや建物はステキだし、食べ物は美味しいし、イタリア人は明るくて、当たり前だけど子どもも大人もイタリア語を喋っていて、全てに感動です。語学ですか? 1ヶ月では、ほとんど習得できませんでしたが、すっかりイタリアかぶれになって帰国しました。そういえば、結納金はいらないという父との約束は、ちゃんと守りました」

「将来はイタリアに行く!」という目標ができ、お金を貯めるためにバイトにも精を出した。英文タイプを習い、バイト先で緊張しながらテレックスも習得した。当時、テレックスは、国際電話以外で海外と通信する最先端テクノロジーだったのだ。

そして、就職の時期を迎える。映画会社に問い合わせたが、「採用はありません」と言われる。そもそも男女雇用機会均等法ができる10年以上前、女子学生の就職は狭き門だった。「あなたは“4年生大学の国文科の女子”という“三重苦”ですから」と某銀行では断られた。当時の花形は“女子短大の英文科の女子”だった。さらに自宅通学ではない女子の場合は、四重苦と言われた時代である。

『ライフ・イズ・ビューティフル』
吉岡さんが映画を字幕翻訳し書籍も出た
『ライフ・イズ・ビューティフル』
(ロベルト ・ベニーニ、
ヴィンチェンツォ・チェラーミ著、
角川書店)

「国文科卒で悪うござんしたね!」とこの時ばかりは悔しさをバネに、外資系企業をめざすことにした。そして、卒業した年の7月、新聞の求人欄で新人募集していたアメリカ企業に応募し採用される。秘書業務のアシスタントのような仕事だったが、英文速記もこなす先輩女性たちの働きぶりに学ぶことも多々あった。

一方、大学時代の映画研究会のツテで、「キネマ旬報」にイタリア映画情報記事を書くようになるが、イタリアの新聞や雑誌があるのはイタリア文化会館だけだったので、会社の昼休みに、霞が関から九段下のイタリア文化会館へタクシーを走らせたこともある。

こうして3年間勤務してお金を貯めた1975年、吉岡さんはいよいよイタリア行きを決行する。めざすは、イタリア最大の映画実験センター(撮影所)「チネチッタ」の映画人養成学校だったが……。

(続く) ※12月初め更新予定

イタリア文化会館

学生時代にイタリア語講座で、勤め人になってからは図書室へと吉岡芳子さんが通ったイタリア文化会館は、2005年に赤が印象的なビルに姿を変えながら、同じ九段下で多彩な活動を担っている。イタリア政府機関が文化普及を目的に、世界80都市に設置しているひとつ。

東京で唯一のイタリア専門図書室には、書籍、雑誌など和書洋書合わせて約1万6千冊、イタリア映画DVD800タイトル以上が所蔵されている。

イタリア語の語学講座のほか、美術、音楽、演劇、写真、ファッション、デザイン関係の充実したイベントも開かれる。イベントは無料のものが多いのもうれしい。ブックフェアも開催。

映画好きにはおなじみ、イタリア映画祭は2001年春にスタートし、今年2020年で20回目を迎える。ところが、新型コロナウイルスの影響で例年のゴールデンウィーク期間中の開催は延期になり、この秋、リアル&オンラインのハイブリッド開催となった。リアル映画祭は11月13日、14日。「幸運の女神」(フェルザン・オズぺテク監督, La dea fortuna, 2019)、「オール・マイ・クレイジー・ラブ」(ガブリエーレ・サルヴァトーレス監督, Tutto il mio folle amore, 2019) 「きっと大丈夫」(フランチェスコ・ブルーニ監督, Cosa sar à , 2020)を上映する。オンライン映画祭も含め、事前申し込み方法など、詳細は公式サイトでご確認を。

イタリア映画祭公式サイト

なお、1988年創設、2007年に中断された「ピーコ・デッラ・ミランドラ賞」の後継として2014年に新設された須賀敦子翻訳賞は、イタリア語著作の優れた日本語翻訳を評価している(隔年開催)。第1回では『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』(関口英子訳、光文社古典新訳文庫、2012)が受賞していた!

第4回の発表は11月の予定だ。

第四回須賀敦子翻訳賞授賞作品決定(2020年11月5日)
イタリア文化会館ウェブサイト

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。