2019.08.15

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.3 福留友子さん〈韓国語〉에피소드(エピソード)1

古典新訳文庫ブログのインタビュー〈女性翻訳家の人生をたずねて〉に、新しいシリーズが加わります。本という媒体ではなく、〈映像〉の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者のシリーズです。字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読いただければ幸いです。

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ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さんというように、映像の字幕翻訳に携わる女たちに聞くこのシリーズ、第3弾は、韓国語の福留友子さんにご登場いただきます。11月には福留さんが手がけた映画「国家が破産する日」が公開されます。

映画「国家が破産する日」ウェブサイト
Kstyle 「キム・ヘス&ユ・アイン出演映画「国家が破産する日」11月8日(金)より日本公開決定!実話を基にした衝撃の問題作」

ドラマ、映画で精力的にお仕事をなさっている福留さんの原点はどこにあるのか。韓国翻訳一直線!というわけではない紆余曲折、それでも赤い糸がどこかでつながっている偶然と必然の旅を、ご一緒にたどってみましょう。

政府間の関係がギクシャクしても、互いの文化や言語に惹かれる人がいて、ドラマや映画、音楽や文学の交流の影には、言葉の架け橋となる翻訳者・通訳者がいます。日本が戦争に負けた日は、植民地として支配されていた朝鮮半島の人たちにとっては解放の日です。異なる視点、違う文化や言語だからこそ交流の歓びがあるのでは? と思いつつ、連載をスタートします。

福留友子さんプロフィール

ふくとめ ともこ  1969年5月1日生まれ。三重県立四日市高等学校を卒業後、東京学芸大学に進学。東京学芸大学大学院教育学研究科修了して、大手進学塾の専任教務社員に。映像翻訳会社で字幕翻訳スタッフとして働いた後、フリーランスで韓国語の字幕翻訳者として活躍中。

代表作は映画『冬の小鳥』『ハロー!?ゴースト』『ソウォン/願い』『バトル・オーシャン/海上決戦(原題:鳴梁)』『ベテラン』『華麗なるリベンジ』『ザ・キング』『リトル・フォレスト春夏秋冬』『麻薬王』『サバハ』、ドラマ『イニョン王妃の男(吹き替え)』『グッド・ドクター』『花郎<ファラン>』『SUITS/スーツ〜運命の選択〜』『スイッチ~君と世界を変える~』ほか。

構成・文 大橋由香子

에피소드(エピソード)2 韓国との遭遇、そして「これで食べていく!」という決意

에피소드(エピソード)3 進学塾で働きながら翻訳への道を暗中模索、そこにやってきた韓流ブーム

番外編 湧き出てくる好奇心と興味の変遷

에피소드(エピソード)1 ハングルとの出会いは、母からのプレゼント

千葉県松戸市に生まれた福留友子さんは、埼玉県で約3年を過ごし、その後は三重県の四日市市で育った。当時は「四日市ぜんそく」というネーミングがあったほど、高度経済成長を支える工業地帯であり、石油コンビナートの排気ガスによる公害でも有名な地域である。

小学生の頃は活発で、虫捕りや魚捕り、冒険ごっこなどの外遊びが大好きだった。

「そういえば、子どもの頃は、あちこちの空き地に土管が積まれていて、よく秘密基地などを作っていました!」

「空き地の土管」と聞いて、今の若い人はわからないかもしれないが、ドラえもんなどの漫画で、それらしい風景を見たことがあるのでは?

そんな空き地で秘密基地ごっこをした福留さんは、一方で、絵を描いたり、本を読んだりするのも好きな子どもだった。

福留友子さん
小学校3年生くらいの頃、家族で琵琶湖へ行った時の写真、近江八幡駅と思われる。隣にいるのは兄。
「兄の表情は微妙にぼかしてあります。怒られそうで…」と福留さん。

純文学を読みあさる小学5年生

「学校の図書室や地域の図書館に入りびたりで、本を借りては読んでいましたね。小学校の3年か4年生の時には、1日1冊読むことを目標にしていたんですよ。担任の教師が、読んだ本の冊数を記入する読書カードが励みだったんだと思いますが、とにかく本が好き。親が忙しいことをいいことに、夜遅くまで本を読み続ける毎日でした。図書室にある児童書はほとんど読んでしまって、小学校5年生くらいからは、純文学作品を読みあさるようになりました」

いくら本好きで読むのが早い福留さんも、大人向けの純文学となると、さすがに1日1冊は不可能になった。それでも読むのに夢中になり、今でも印象に残っている作家は、夏目漱石や志賀直哉、山本有三、太宰治だという。親は仕事で忙しいので、夜遅くまで本を読みつづけられた。

外国の作家では、フランスのジュール・ルナールが猛烈に好きだった。

「好きだったルナールの作品は『にんじん』と『博物誌』です。『博物誌』(岸田國士訳)は生き物などを独特の感性で描写しているのですが、蛇の章はほんのひと言「蛇 長すぎる」だけで、いい意味で衝撃を受けました。」

文学のほかにも、夢中になった本がある。家には分野別の百科事典があり、「世界地理」と「宇宙」の項目がお気に入りで、繰り返し、すみずみまで読んでいた。とくに「世界地理」は、外国や外国語に目が向くきっかけになった。

「小学生のころの私が、いちばん行ってみたい国は、アルバニアと北朝鮮だったんですよ(笑)。なぜかというと、その百科事典に、鎖国していて外国人が訪れないので国内の状況はよくわからない、と書いてあったから。『わからない』というところに、すごく興味をそそられたんです。ちょっとひねくれているというか、変わった子だったのかもしれません。
 それから、言葉遊びなども大好きで、友だちを笑わせようとしてダジャレばかり言っていた記憶があります」

外国や言葉への興味は、将来の翻訳という仕事につながっているとも言えそうだが、もうひとつ、決定的な出会いがある。

生活は楽ではなかったが、お母さんは友子さんが欲しがる本をよく買ってくれた。ある日、娘のリクエストではなく、お母さんが選んだ本をプレゼントしてくれる。それが、『ユンボギの日記』だった。

 

「韓国の本は、その時に初めて読んだと思います。「ドリトル先生」や「赤毛のアン」シリーズなど欧米の本はよく読んでいましたが、韓国は身近な国ではなかったですね。それで『ユンボギの日記』を開くと、見返し部分にハングルが書いてあったんです。その文字にびっくりしました。こんな文字を書いてるんだ! と。
 しかもその文字の説明として、『朝鮮文字は、ひじょうに科学的でおぼえやすい』と書いてあったんです。それに触発されて、何度も何度も文字をマネして、なぞって書いてみました」

『ユンボギの日記』は、1960年ごろ、朝鮮戦争の後の南朝鮮(韓国)で、父と幼い妹、弟と暮らす小学生の男の子の日記。家具職人だった父が病気で働けなくなり、長男のユンボギは、ガム売りをして稼いだわずかなお金で、うどん玉を買って家族の食事をつくる。母親は、父の浮気に嫌気がさして家出してしまった。極貧の生活の中、悲しい出来事の旅に、ぽろぽろと涙を流すユンボギ少年が、担任の先生にもらったノートに書き綴った日記を出版したものだ。

『ユンボギの日記』(塚田勲訳、大平出版社、1965年初版) 『ユンボギの日記』(塚田勲訳、大平出版社、1965年初版)
『ユンボギの日記』 (塚田勲訳、大平出版社、1965年初版)
見返しには、日本と朝鮮半島の地図とともに、本文から6月2日の日記原文が引用されている。「お母さん」「ぼくは」など少しだけ日本語の単語が右に記されている。
見返しに書いてある説明文。「朝鮮文字は、○や□や−や|などの組みあわせてでできていて、ひじょうに科学的でおぼえやすい」

「銅銭に『トンジョン』、友だちは『トンム』というように、ところどころに韓国語の発音が出てきたり、『ウドン玉』『ウン(運)』『ベント(弁当)』など、日本語がそのまま朝鮮語になっていると注に書かれていて、新鮮でした。こうして、私が最初に意識した外国語は韓国語になりました。ハングルってきれいだな、と感じました。大きくなったら、韓国語を勉強しようと漠然と思っていた気がします」

戦後も長い間、日本のニュースなどに出てくる韓国人の名前は、漢字の日本語読みで発音されていた。『ユンボギの日記』の時代の独裁政権だった大統領パク・ジョンヒ(朴正煕)は、「ぼくせいき」と発音されていた。その後も、チョンドファン(全斗煥)は「ぜんとかん」、キムデジュン(金大中)は「きんだいちゅう」という具合いだ。

そんな時代に、この本の中では、南山洞(ナムサンドン)、慶州(キョンジュ)とルビをふっていた。

小学生だった福留さんも、ハングルはもちろんのこと、お隣の国で暮らす少年の運命から、いろいろなことを感じとったのではないだろうか。

 

「何年か前に引っ越した時に本を整理したんですが、これだけは捨てられなくて、こんなに古くなってしまいましたが、今も大事に持っています。母がこの本を買ってくれた理由ですか? 本人に聞いてみたいですが、もう歳で、本の題名も記憶にないようなんです。今の仕事に、母親が導いてくれたのかな」

今から振り返ると、子ども時代のいろいろな出来事が、韓国語の字幕翻訳の仕事に生きている。とはいえ、子どもの頃の福留さんの「将来の夢」は、画家、小説家、宇宙物理学者で、そこに翻訳家は、まだなかった。

中学生になってクラリネットに夢中、本から遠ざかる日々

公立中学校に進学すると、吹奏楽部に入部。2歳年上の兄も吹奏楽部だったので、その影響もあったようだ。

生まれて初めてクラリネットを吹くようになり、体育会のような厳しい練習漬けの毎日を送る。

「中学生になると、部活に夢中になって、本はあまり読まなくなってしまいました」

中学から始まった教科・英語には、あまり惹きつけられず、勉強も熱心にしなかったので、むしろ苦手だった。

「そもそも、まじめに勉強していないくせに、英語や語学は苦手だと決めつけていたところがありましたね」

『ユンボギの日記』でハングルを見た時に抱いたワクワクした気持ちは、アルファベットには感じなかった。

中学卒業後は、三重県立四日市高校に進学。高校でも吹奏楽に入部し、2年生になったときは副部長を務めた。

「中学高校は、本当に部活をやっていた記憶しかありません。読書をする暇もなく、朝から晩までクラリネットを吹いていました。吹奏楽の何にハマったか?
 うーん、さまざまな楽器が織りなすハーモニーに魅力を感じて始めたわけなんですが、練習によって演奏技術がどんどん向上していくことに快感を覚えるようになって、気づいたら部活漬けの毎日でしたね。
 よく考えると、塾や習い事に通った経験がなかったので、唯一、自分の成長を感じられる場だったかもしれません。楽しかったです。
 高校からは新書類(岩波、中公、講談社現代~、講談社ブルーバックス)をよく読むようになりました。10代の多感な時期にもっと小説を読んでいれば、字幕翻訳の役に立っただろうにと悔やまれます」

翻訳家への道まっしぐら、というわけではなさそうだ。

続く

『ユンボギの日記』と翻訳者・塚本勲さん

この2、3年、『カステラ』(パク・ミンギュ著、ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳 、クレイン)、『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房)など韓国の現代文学が次々と日本語に翻訳され多くの読者を獲得している。そんな現在からはにわかに信じられないが、1965年『ユンボギの日記』は「朝鮮の本を、日本人が日本語に翻訳しておおやけに刊行する最初の本」だったという(日本版刊行者=太平出版社編集部より)。

『ユンボギの日記』を翻訳した塚本勲さんは、1939年生まれ。巻末の「訳者あとがきーこの、さいしょの翻訳を亡き母に捧げる」にこう記している。

「わたくしが、この本を翻訳したのは、十一才の少年のそぼくな目で、南朝鮮の一断面が、うきぼりにされていると思ったからです。……

日本人は、あまりにも、この隣国のことを知らなすぎるーーいつも、こうつぶやきながら、私は朝鮮語や朝鮮の文化を学んできました。……

朝鮮民族には、なん千年もの歴史をもつ、すばらしい文化があります。かつて、わたくしたちの祖先は、その文化をたくさん吸収してきました。いま、わたくしがここに書きつづっている漢字も、朝鮮の学者がもたらしたものでした。わたくしたちの祖先が、学び求めてきた文化を、いまわたくしたちが、なぜ無視したり、ときには、さげすまなければいけないのでしょうか。」

こう記した塚本さんは、独学で朝鮮語を学び、1963年大阪外国語大学に朝鮮語学科が設置されると同時に専任講師となり、1977年猪飼野朝鮮図書資料室を開設。大学退官後は「いかいの朝鮮・韓国塾」(のちに「ハングル塾つるはし」)代表として塾で教鞭をとり、『朝鮮語大辞典』(編集主幹、角川書店、1986)など辞典の監修や語学入門書を執筆する。2006年『完訳 ユンボギの日記』が評言社から刊行された。

塚本文庫 大阪府立中央図書館内
平成14年3月19日~30日、大阪府立中央図書館で開催された「塚本文庫」展示会(所蔵:大阪府立中央図書館)
大阪府立中央図書館内 塚本文庫

なお、「ユンボギの日記」は、大島渚監督がスチール写真を使う手法で映画化した。

Filmarks 「ユンボギの日記」

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。