2021.09.28

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事1

いつまでもコロナは終息せず医療逼迫、入院できない人が増え、ワクチン接種をしてもブレイクスルーで感染もあるという事態になっています。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。

ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さん、イタリア語の吉岡芳子さんと、映像の字幕翻訳に携わる女たちへのインタビュー・シリーズ第5弾は、中国語の樋口裕子さんです。

樋口さんは、東京神保町・岩波ホールで公開中の『大地と白い雲』の字幕翻訳をなさっています。中国四千年の歴史、そして困難と緊張をはらむ日中関係に思いをはせながら、字幕マジックな女性の軌跡を追体験してください。

まずは、『大地と白い雲』でのお仕事ぶりと、映画のシーンを彷彿とさせる子ども時代の「エピソード=小故事」1です。

樋口裕子さんプロフィール

字幕マジックの女たち vol.5 中国語 樋口裕子さん

ひぐち ゆうこ  早稲田大学非常勤講師。主な字幕翻訳に『鵞鳥湖の夜』『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』『SHADOW 影武者』『芳華-Youth-』『スプリング・フィーバー』『ブラインド・マッサージ』『無言歌』『王妃の紋章』『PROMIS 無極』『狙った恋の落とし方。』『ナイルの娘』『光にふれる』ほか多数。著書『懐古(懐旧)的<レトロ>中国を歩く』、訳書に『藍色夏恋』『ザ・ホスピタル』『上海音楽学院のある女学生の純愛物語』ほか。

〈構成・文 大橋由香子〉

小故事1
田んぼでスズメを追い払い、怪獣映画やジュリーが好きな“歴女”

樋口さんは、映画『大地と白い雲』に重層的に関わっている。

まず、2019年の東京国際映画祭に出品された際、制作会社から字幕翻訳を依頼された。モンゴル語の映画だが、王瑞(ワン・ルイ)監督が漢族で、映画の中に中国語も登場すること、スクリプト(セリフを文字化した台本)が中国語ということで、樋口さんが引き受けた。そして、毎年、映画祭の通訳をしているので、王監督やキャストの舞台挨拶を通訳した。このとき、芸術貢献賞を受賞したため、授賞式や記者会見の通訳も担当した。

劇場公開が決まってからは、字幕の修正に取り組んだ。映画祭では、英語字幕が横書きで入り、日本語字幕は縦に入れていたのを、劇場版では横にする。「そうは言っても、縦のものを横にするだけの簡単なことではないんですよ」と樋口さん。(翻訳作業の工程についてはこの連載の後半でご紹介する)。

モンゴル語の監修者と確認しあいながら、スピードが最優先の映画祭字幕を、劇場公開版へと完成させた。

さらに、岩波ホールの映画パンフレットにエッセイを執筆し、劇場公開前の8月初旬には、王監督とのリモート取材の通訳もつとめた。

「1本の映画に、これだけ関われたのは本当に幸せです。お仕事を頂けたという意味だけではなく、映画を詳しく理解できる、自分が深く入りこめるという喜びです。王監督から、この映画は妻への感謝のメッセージなんだ、彼女とは14歳の時からの知り合いで初恋の相手だった、などという話を直接聞けるのも、楽しいです」

映画『大地と白い雲』公式ウェブサイト

それでは、樋口さんは、どのようにして中国と出会い、字幕翻訳を含めた多角的なお仕事をするようになったのだろうか。

ヤクザ映画のような田舎町、星一徹のような父

樋口さんが生まれ育ったのは、昭和30年代〜40年代の三重県紀伊長島町。熊野古道の入り口に位置し、リアス式海岸と山に挟まれた小さな町で、漁業と農業、林業も盛んだった。

父親は、警察予備隊に勧誘されて入隊、数年して辞めてから、土建業を始める。道路の側溝や家の土台作り、解体などをしていた。

母も一緒に仕事をしていたので、樋口さんは保育園に預けられたが、「毎日同じことの繰り返しでつまらない」と自主退園(中退)し、祖母と畑で過ごすようになった。

広いレンゲ畑を走り回ったり、首飾りを作ったり。案山子(カカシ)では追い払いきれないスズメを脅すために、缶を叩くお手伝いもした。

「大人になって中国映画の農村の様子を見たとき、私の昔と同じだわ、と思いました。畑に小屋があって、そこで遊んだり漫画を読んだり。3、4歳の頃は、祖父にオンブされ、祖母と三人で、旅回りの芝居を見に行きました。そのセリフの一節は、今でも覚えています。
 祖父は寝言でも『金色夜叉』や『湯島の白梅』の一節を歌っていました。『熱海の海岸、散歩する、寛一、お宮の〜〜』とか『粋な黒塀、見越しの松に、あだな姿の洗い髪、死んだはずだよ、お富さん〜〜』の歌は、今も耳にこびり付いています。寝言でよく長い歌を歌えるなーと不思議でした」

当時の紀伊半島、長島町は、漁師町で気性が荒い雰囲気もあり、ケンカ沙汰や、ヤクザ映画にかぶれたようなチンピラ風の若者もうろついていたという。

父は、畑の境界線のトラブルなどを解決するために、どこかの「組」の親戚宅に出かけることもあった。そんな時、父は、まだ子どもの樋口さんを連れて行った。

「なんのために私を連れて行ったのかわかりませんが、サラシの腹巻きに刺した包丁を、畳にブスッと刺す! みたいなシーンを見た覚えがあります。怖いとはあまり感じなかったです。わたしも肝が座っていたんですね(笑)。
 家でも、夕飯を静かに食べたことはありません。父は酒を飲むと、ひんぱんに『ちゃぶ台返し』をするんですよ。マンガ『巨人の星』の飛雄馬の父・星一徹みたいに(笑)。昼間の腹立たしかったことを思い出すのか、物が飛んだり、母を怒鳴ったり。台所で黙々と茶碗を洗っている母の姿を見るのが、子ども心にもイヤでしたね。
 とはいえ、父も酔わなければよく働くし、周囲の人に頼られる、義侠心のある昭和の男。私も決して嫌いではなかったんですけど」

子ども時代は、ほかにも面白い出来事がたくさんあった。

漁業協同組合が港の近くにあり、マイクで気象情報などを流す。

ある日、「西小学校のみなさん、いまクジラの赤ちゃんが長島港に入ってきました。急いで見にきてください」という放送が入り、担任の先生も「皆さん行きましょう」と呼びかけ、すぐ近くの港に出かけた。

「可愛かったですよ、赤ちゃんと言ってもクジラだから、3メートルはあったんじゃないかな。別の時には、近所の養鶏場に忍び込んだ熊が罠にかかって、新聞記者がやってきたこともありました。熊と私を並べて、写真を撮られて、新聞に載りました。
 私は、意外と体が弱かったんです。小1の時には2週間くらい入院したことがあって、『世界の童話全集』12巻を全部読んでしまいましたね。割と薄かったし、何しろヒマだったので」

当時は各出版社から、少年少女・世界文学・名作文学などの単語を組み合わせた、子ども向け全集が刊行された時期だった。高度経済成長のさなか、百科事典を購入する家庭もあった。

毎月1冊ずつ配本された全何十巻の少年少女向けの文学全集を、樋口さんは小学校の高学年までに、すべて読んでしまったという。

その後、樋口さんがハマったのは、時代劇と歴史小説、マンガ『ベルサイユのばら』。司馬遼太郎、柴田錬三郎、八切止夫などを地元の本屋さんや図書館で見つけ夢中で読んだ。

「戦国武将にまっしぐら、今で言う“歴女”ですね。12歳くらいで高野山に登った時は感無量でした。漢詩や和歌、俳句を暗唱するのも好きでした。これが今の仕事に繋がっているかもしれませんね。
 ちゃぶ台返しの父でしたが、私に『面白かったか?』と聞いて、自分も同じ本を読むんです。戦争中で本がない、読む余裕がない時代に育ったせいでしょうか、私が図書館から借りてきた山本有三の『路傍の石』とか、住井すゑさんの『橋のない川』なんかも読んでいました」

字幕マジックの女たち vol.5 中国語 樋口裕子さん1
二人いる妹のうち、4歳下の上の妹と。後ろは自宅の納屋。 父が仕事で使っていたミゼット(三輪自動車)。写真提供:樋口裕子

もう一つの樋口さんの楽しみが、映画館通い。昭和40年代前半、日本各地の小さな町にも、映画館がたくさん存在した。当時の人口約3万2千人という長島町にも、映画館が3軒あった(ちなみに現在の人口は約1万5千人)。

『大魔神』などの怪獣もの、沢田研二(ジュリー)が出演するザ・タイガースの映画を、妹や近所の友だちと一緒に、子どもだけで観に行った。上映していたのはほとんど邦画。テレビが普及する前、日本映画の全盛時代は、樋口さんが中学生くらいまで続いていた。


高校で下宿暮らし、タガがはずれ歴史モノにハマる

本をたくさん読み、歴史や漢詩が好き、社会や国語の成績もよかった樋口さんは、中学卒業後、県立の進学高校に入学する。

自宅からは通えないので、下宿暮らしをすることになった。

「うれしかったですよ! 父親のちゃぶ台返しもないし、自由になりました。我慢していたものがなくなって、タガがはずれて勉強もしなくなって、進学校の落ちこぼれ生徒でした(笑)」

部活動は、軟式テニスと歴史研究会。歴研では、奈良の歴史探訪に出かけた。

文章を書くのも好きだった。修学旅行では、自分の観察を盛り込みながら、友人たちの会話を再現したルポルタージュ風のエッセイにまとめ、冊子に掲載され好評だった。

「国語の教科書に必ず漢文があって、それが楽しかったですね。返り点の読み下し文。リズムがよかったし、その時、『中国って、ちょっと面白いな』と思ったんですね」

同級生たちが現役で東京大学や大阪大学に合格する中、すっかり「自由モード」の高校生活を満喫した樋口さんは、一浪。名古屋の予備校に通い、下宿暮らしが続いた。

「浪人時代は新選組と尾崎士郎の大河小説『人生劇場』にハマってました。村田英雄が歌う『人生劇場』の義侠的な歌も好きだったので、そのイメージだけで、大学へ行くなら早稲田だな、と思いました。それに、東京は関西よりずっと遠くて未知の世界で、自由も何もかも手に入るような気がしました。だから、中国のド田舎の人が上海へ、北京へと行きたいと思い、その憧れを原動力に出稼ぎをし、また挫折をし、というような中国映画に出会うと、とてもシンパシーを感じます」

こうして1970年代末、樋口さんは、早稲田大学で東洋史を学ぶ。当時、早稲田には中国から来ている教員はほとんどおらず、台湾からの先生が何人かいたくらい。中国語会話の授業もなかったそうだ。

東洋史の講義で司馬遷の『史記』や、魯迅などの文学を読むことを通じて、中国に触れ、自分が好きなことだけ勉強していたある日……。

「中国語会話の学内サークルに入っていた友だちが、『友好訪華団』という中国への学習・観光ツアーに私を誘ってくれたんです。他大学の学生も一緒のツアーで、北京への直行便がなかったので、イギリス領の香港から入り、途中で線路を歩いて、深圳(シンセン)から中華人民共和国に入りました」

ついに中国の大地に足を踏み入れた樋口さん。約2週間の旅では、大都市ではなく、地方の歴史ある場所を訪れた。

どこに行っても、「外国人を見るのは初めて」という人も多く、日本人学生たちは熱烈歓迎、モミクチャにされた。

「パンダを見に行ったら、私たちを見る中国人民のほうが多いんですよ。蘭州(ランシュウ)でも、『文化大革命の後、5番目に来た外国人だ』と言われ、私たちを見ようとバスに押し寄せてくる(下の写真参照)。
 人混みを歩く時、勉強してきた中国語で「対不起(トゥイプチー)」(すいません)」と言ったら、ガイドさんが大笑いして、『すいませんと言ったって、どいてくれるわけない。とにかく人をかき分けて、進まなきゃダメ』と言われました。これが私の生の中国語、初体験でした」

光文社古典新訳文庫 字幕マジックの女たち vol.5 中国語 樋口裕子さん1
「私たちのバスを取り囲む蘭州の人々。どこから湧いてくるのか、
続々と集まってきました。」写真提供:樋口裕子

夜、遊びに出たら、人民服のコートを着た若い女の子たちと会って、カタコトの中国語でもなんとなく通じたという。一緒に革命の歌を歌った。樋口さんたちは訪中前に旅行社の人からこの歌を習っていたのだが、現地の人にとっては、振り返りたくない歌だったかもしれない。

日本からの女子学生たちは、2月だというのにスカートを履いていた。中国の人たちには、このスカート姿も珍しかったのだろう。

樋口さんにとっても、人の顔、一挙手一頭足が面白かった。

実はこの時、中国とベトナムは戦争状態にあったことを、樋口さんはだいぶ後になってから知った。今なら日本の外務省が渡航自粛など注意喚起してもおかしくない事態だった。

のちに、フォン・シャオガン監督『芳華-Youth-』の字幕翻訳をした樋口さんは、映画のパンフレットにこのように記している。(2019年)

「『中国の対ベトナム自衛的反撃戦は、1979年2月17日の早朝6時に始まった』と字幕の原稿を書いて、私は、ハッと胸を突かれた。学生の自分が初訪中したのは、その6日後の23日。開戦の情報は出発前には知らされていなかったのだろう、とにかく中国の歴史や文学を学ぶのんびりした学生たちが広州から入り、激戦が続いていたはずの間、3月9日まで長旅をしている。甘っちょろい“歴女”の私は、現代の中国には興味なく、西安や蘭州、長沙を訪れ、漢や唐の時代の遺跡を見学して喜々としていた。その頃、劉峰(リウ フォン)は銃撃戦のただなか、小萍(シャオ ピン)は夜戦病院で奮闘していたのだ……。2019年2月で中越戦争から40年になる。『今』がどんどん古くなる激変の中国で、それは近くて遠い歳月だ」
「それぞれの芳華(せいしゅん)と人生〜映画と小説から」

初めての中国訪問は、樋口さんのその後の方向性を決めたようだ。

(続く)

樋口裕子さんが編集・執筆・翻訳した本
『侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と私の台湾ニューシネマ』
『侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と
私の台湾ニューシネマ』
朱天文著、樋口裕子・小坂史子編・訳、
竹書房 2021年4月刊、
本体2500円

『恋恋風塵』『悲情城市』など台湾ニューシネマを担った映画監督・侯孝賢について、脚本を担当した作家・朱天文が書いたものを集めた1冊。朱さんの記憶の確かさ、時代の雰囲気が生き生きと伝わってくることに感銘を受けた樋口さんが企画・編集し、小坂さんと翻訳した。秘蔵スナップ写真がたくさん収録されているのも魅力。

表紙カバーの写真は、侯監督(表紙写真右)と朱さん(同左)が、思い出深い明星(ミンシン)珈琲館で『冬冬の夏休み』について話し合っているところ。撮ったのは、今は亡きエドワード・ヤン監督だという。樋口さんによると、朱さんと74歳になる候監督は、出来上がったこの本の写真を見ながら、楽しい時間を過ごしたそうだ。

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。