幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。 〈取材・文 大橋由香子〉
*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。
光文社古典新訳文庫では『ジェイン・エア』『高慢と偏見』を手がけた小尾芙佐さん、初めての翻訳が活字になったのは1960年、創刊まもない「S-Fマガジン」(早川書房)誌上、旧姓である神谷芙佐の名前でした。その後も、アシモフのロボットシリーズ、ロングセラーになった『アルジャーノンに花束を』やスティーヴン・キングの『IT』などさまざまな作品を訳してきました。「SF翻訳家」と称されることが多いものの、意外なことに、もともとはSFが好きだったわけではなかったそうです。小尾さんの道のりを5回に分けて掲載します。また、小尾さんが愛読した本、訳した本の紹介など、関連するコラムを"裏の回"としておおくりします。
(文中に登場する方々のお名前は敬称を略させていただきます)
小尾芙佐(おび ふさ)さん プロフィール
1932年生まれ。津田塾大学英文科卒。翻訳家。訳書に『闇の左手』(ル・グィン)、『われはロボット』(アシモフ)、『アルジャーノンに花束を』(キイス)、『IT』(キング)、『消えた少年たち』(カード)、『竜の挑戦』(マキャフリイ)、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(ハッドン)、『くらやみの速さはどれくらい』(ムーン)、『ジェイン・エア』(C・ブロンテ)『高慢と偏見』(オースティン)ほか多数。
神谷(のちに小尾)芙佐は、1932(昭和7)年3月24日、東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木70番地(現在の西新宿6丁目6番地あたり)で生まれた。家並みのかなたに浮かぶ「ヨヨハタ」(
小さいころは、整備が始まったばかりでぺんぺん草が生えていた新宿駅西口の広場で縄跳びをし、青梅街道をはさんだ成子天神社や熊野神社、広大な淀橋浄水場が遊び場だった。
母親は教育熱心で、わざわざ娘を知人宅に寄留させて、学区外の淀橋第一小学校に入学させた。「第一学校、ボロ学校、あがってみたらいい学校」と子どもたちが歌いはやすような学校だった。新宿副都心の完成とともに生徒数が激減し、1997年に淀橋第七小学校と統合、場所を移して新宿区立柏木小学校となっている。かつての第一小学校跡地の目前には、高層ビルがそそりたっている。
父親は無類の本好きで、とくにミステリを耽読し、大学在学中から探偵小説を書くのが夢だったらしい。
「おかげで、父の書斎は古今東西のミステリ本で埋まっていました。1920年創刊の探偵小説雑誌『新青年』のバックナンバーも、家のあちこちに山積みになっていましたね。私は小学校3年生のころには、吉屋信子の少女小説、山中峯太郎や海野十三の冒険小説、『小公女』や『小公子』などの外国の児童文学を読み、ギリシャ・ローマ神話も卒業して、今度はうず高く積まれた父の蔵書を手当たり次第に読むようになりました」
エドガー・アラン・ポー、クロフツ、エラリー・クイーン、コナン・ドイルの諸作品、モーリス・ルブランの 『ルパン全集』、江戸川乱歩や野村胡堂の『銭形平次捕物控』、横溝正史『人形佐七捕物帳』を愛読し、大衆文学全集、講談全集なども読み尽くした。桑の葉の山に埋もれた蚕の幼虫が、凄まじい勢いで桑を食べていくような毎日だった。
「何を読んでも父は何も言わなかったのに、あるとき、ハガードの 『洞窟の女王』を読んでいたら、"こんなものは読んではいけない"、と取り上げられたのは不思議でした。このころ、江戸川乱歩の『人間椅子』に衝撃を受けたことを、はっきり覚えています。よほど早熟な女の子だったのでしょうね」
学校の帰り道、歩きながら本を読み、電信柱にぶつかったこともある。
「おやつを食べるときは必ず本を読んでいたし、食事のときも、読みかけの本をもって食卓についたりして、さすがに母に叱られました」
ガラス扉のついた本棚にうやうやしくならぶ世界文学全集は、小学生には手強かったが、それでも『モンテ・クリスト伯』や『クオ・ヴァディス』などを少し
漢字が多くスラスラ読めないのが悔しくて、本の厚紙のケースの背に、花子とか桃子とか名前を書いて、うさ晴らしをしていたという。
1941(昭和16)年、小学校4年生のとき、太平洋戦争が始まる。真珠湾攻撃の翌朝、全校生徒が校庭に集められ、校長先生から訓示があった。それからは、徐々に戦時色が強まり、授業の合間に戦地の兵隊に送る慰問袋を作ったり、出征兵士に贈る千人針作りのお手伝いで街頭に立ったりする。南方から送られた貴重なゴムまりに感謝する作文も書かされた。
1943年、良妻賢母の育成を目指すという校風が母親の気に入り、私立三輪田高等女学校に入学する。だが、入学して1年もたたないうちに空襲が頻繁になり、疎開する生徒も増えて、クラスメートは十人ほどになってしまった。
英語の授業はまだあった。"This is a pen."で始まる教科書が使われていたことを記憶している。学校は一部が「学校工場」になり、上級生がミシンを踏んで働く姿が見えた。勉学にはあまり身が入らなかった。
1945年ごろには、紙も統制物資で配給となった。本や雑誌の出版点数も減り、ページ数も減らされ、新刊書は極端に少なくなった。神谷は、読むための本を求めて同級生を追いまわし、本のある家に押しかけるようになった。
この年、柏木(西新宿)の家が、強制疎開 (空襲による延焼をふせぐために家を取り壊して防火地帯をつくること)となり、西大久保に転居した。空襲が激しさを増し、母親と妹は長野県上伊那郡高遠町にある母の実家に疎開した。ここは、高遠藩の小さな城下町で、藩に関わりのあった父祖の地でもあった。
東京に残った父親とともに、ほとんど毎夜、空襲警報のサイレンが鳴るたびに防空壕に飛びこみ、爆弾が炸裂する音がドーン、ドーンと近づいてくる恐怖をあじわった。市ヶ谷にある女学校まで通学するあいだにも、空襲警報が鳴り、そのたびに電車が止まり、駅の外の物陰に身をひそめた。
自宅から道路を1本隔てた新宿寄りの住宅地がきれいに焼き尽くされると、通学をあきらめ、神谷も長野に疎開することになった。リュックサックに身のまわりのものと数冊の本を詰め、ぎゅうぎゅう詰めの汽車に8時間立ち通し(そのあいだ本を読んでいたので苦痛は感じなかった)、電車とバスをのりついで、ひとり高遠に着いた。
しばらくして、東京の自宅が焼けたという知らせがきた。家の焼け跡には、本の形のままの灰が、うずたかく小山となって残っていたと、父の知人から伝え聞いた。
「でも、そのときは、本が惜しいとは感じなかったんです。みんな空襲で家を失くしていたから、うちだけ焼けてないという申し訳なさがあったんでしょうか、哀しいより、やっと人並みになれたって思いましたね」
長野では、県立伊那高等女学校に転入学する。疎開してくる生徒が多く、「疎開組」が1クラスできていた。通学は、10キロのデコボコ道をバス通学。戦争中でガソリンはないので木炭車。エンジンがなかなかかからず、発車まで長時間待たされた。ガタガタと走り出すバスの後部座席のはしっこで、いつも本を読んでいた。どんな本だったかは、覚えていないという。
戦争はさらに激化し、学校も授業どころではなくなる。勤労奉仕、農家の手伝いに狩り出されて、かたい田んぼの土を掘りかえし、戦闘機のガソリンの代用として使われる
やがて、十人ほどの生徒が選ばれて、稚蚕飼育所というところに送りこまれる。卵から
「お国のための重要な任務と言われたけれど、蚕が吐き出すあの絹が、何に使われたのか知りません。ことによると、落下傘になっていたかもしれませんね」
あまりの激務に、高熱を出して務めを離脱する。その後、肺門淋巴腺炎 (初期の結核)と診断され、1年の休学を強いられた。
安静が第一のため読書も禁じられたが、母親に隠れて、古新聞や古雑誌のたぐいまで読んだ。納戸の奥に、日本文学全集を見つけたときはうれしかった。里見弴の『多情仏心』、佐藤春夫の『田園の憂鬱』や『都会の憂鬱』などを読んで、なんだか気分が滅入ったのを覚えているという。
1945年 8月、敗戦を迎えたときは13歳。 ラジオの玉音放送は高遠の家で聞いた。
「これで恋しい東京に帰れる、そう思ったことしか覚えていません」
ところが、疎開中に実家の跡取りである母の兄が病気で亡くなったため、母は年老いた両親を置いて東京に帰ることができない。女学校の疎開組の生徒は、ひとり、ふたりと、毎日のように東京に帰って行き、とうとう最後に神谷だけが残された。大学入学までの6年間を、この地で暮らすことになる。中央アルプス (木曽駒ヶ岳)や秀麗な仙丈岳にかこまれ、遠くはるかに北アルプスを望むこの伊那は、第二の故郷になる。
旧制女学校が新制高校になり、名前も伊那弥生ケ丘高等学校と変わった。
病状も回復して、復学後はバスケット部の部員になり、大学受験1年前まで毎日バスケットの練習に明け暮れた。子どものころから本が大好きで、戦争中、空腹の飢餓感以上に、活字に飢えていた神谷だったが、この時期、なぜか読書から遠ざかっていた。
そして、音楽に目覚める。友人の家にSPレコードがたくさんあり、そのなかにべートーべンの交響曲第九番があった。全曲で5、6枚はあったそのレコードを、手回しの蓄音機で何度も聴き、合唱に入るところ、テノールのソロの第一声に心が震えた。家でも、ガアガアと雑音の入るラジオに耳をくっつけてクラシック音楽を聞いた。
ピアノを習いたいと思ってもピアノはなく、やむなく早朝に学校に出かけて、講堂のグランド・ピアノで、ひとりバイエルの練習をした。(2回表に続く)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社 )『満心愛の人』(インパクト出版会)ほか。