幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月5日・20日更新)
*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。
光文社古典新訳文庫では『ジェイン・エア』『高慢と偏見』を手がけた小尾芙佐さん、初めての翻訳が活字になったのは1960年、創刊まもない「S-Fマガジン」(早川書房)誌上、旧姓である神谷芙佐の名前でした。その後も、アシモフのロボットシリーズ、ロングセラーになった『アルジャーノンに花束を』やスティーヴン・キングの『IT』などさまざまな作品を訳してきました。「SF翻訳家」と称されることが多いものの、意外なことに、もともとはSFが好きだったわけではなかったそうです。小尾さんの道のりを5回に分けて掲載します。また、小尾さんが愛読した本、訳した本の紹介など、関連するコラムを"裏の回"としておおくりします。
(文中に登場する方々のお名前は敬称を略させていただきます)
小尾芙佐(おび ふさ)さん プロフィール
1932年生まれ。津田塾大学英文科卒。翻訳家。訳書に『闇の左手』(ル・グィン)、『われはロボット』(アシモフ)、『アルジャーノンに花束を』(キイス)、『IT』(キング)、『消えた少年たち』(カード)、『竜の挑戦』(マキャフリイ)、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(ハッドン)、『くらやみの速さはどれくらい』(ムーン)、『ジェイン・エア』(C・ブロンテ)『高慢と偏見』(オースティン)ほか多数。
神谷(小尾)芙佐は、ひまわり社に採用され、「それいゆ」編集部に配属となった。
入社試験に遅刻した神谷に、扉を閉めずに大声で呼びかけた女性がいなかったら、ひまわり社に入ることもなく、その後の人生も変わっていたかもしれない。救いの神である彼女は「ジュニアそれいゆ」の編集者だった。
神谷の最初の仕事は、中原淳一がデザインしたドレスを着るモデルの手配。そして、グラビアの写真撮影助手だった。芳村真理、大内順子、朝丘雪路、雪村いづみ、菅原文太、小林旭、宍戸錠などが、モデルとして「それいゆ」誌面を賑わせていた時代だ。
やがて、グラビアページのネーム(説明文)を書かされるようになる。書き上げた原稿は、必ず千川にある中原淳一の自宅に持参して、厳しいチェックを受ける。オーケーが出るかどうか、緊張して待っていた。
この「それいゆ」の誌上で、早川書房の福島正実の名に出会うことになる。当時、キャザリン・ギャスキン著「サラ・ディン」という翻訳小説が連載されていた。その訳者が福島正実。神谷は担当になり、原稿をもらうために初めて早川書房を訪れることになった。愛する「EQMM」や、ポケミスの愛称で知られるハヤカワ・ポケット・ミステリを出している憧れの出版社だ。
当時の早川書房は神田駅の近くにあった。2階への狭い木の階段をとんとんのぼっていくと、ミステリの編集部があり、田村隆一や都筑道夫など、そうそうたるメンバーが顔をそろえていたはずである。一月おきに原稿をもらいに行くのが、神谷の最大の楽しみだったことは言うまでもない。
「ひまわり社の仕事は激務でした。締め切り間近になると朝帰りがつづきました。でも、会社は銀座八丁目のビルにあって、近くには若い丸山明宏 (美輪明宏)が歌っていた『銀巴里』もあって、刺激的な毎日でしたね」
ようやく新築された自宅から、銀座まで毎日通った。だが、激務がたたり、とうとう身体をこわして、1958年末に、ひまわり社を退社することになった。
「翻訳」という仕事に真剣に向き合おうと決意し、早川書房の福島正実を訪ねたのは、1959年の半ばごろだった。
福島からミステリの短篇が渡され、訳してくるようにと言われた。その試訳がパスして、いよいよ翻訳の道に踏みた出すことになる。26歳のときだ。
「仕事を始めるにあたって、"あなたはミステリの翻訳をやりたいということだが、ぼくは 『S-Fマガジン』の創刊を間近に控えて奮闘している。ゆくゆくはそちらのほうも手伝ってもらいますよ"、と福島さんに念を押されました」
その場で、「これをお読みなさい」と渡されたのが、フィリップ・K・ディックの 『宇宙の眼』Eye in the Sky だった(原著1957年、『宇宙の眼』中田耕治訳 1959、のちに『虚空の眼』大瀧啓裕訳 サンリオSF文庫1986→創元SF文庫1991)
これを読んで驚愕し、「こんな凄い小説があるんですね」と福島に報告している。それまでの神谷にはまったく無縁だったSFだが、理解する感性があったようだ。
数人の先輩方の下訳から始めて、やがて「EQMM」と「S-Fマガジン」の両誌で翻訳をするようになる。創刊から4号目の「S-Fマガジン」1960年5月号にキャロル・エムシュウィラーの「狩人」が、「EQMM」1960年6月号 (No.48 )にジャック・フィニイの「未亡人ポーチ」が載った。
「"いいでしょう、活字になる気分って"と福島さんに言われたことを、はっきり覚えています」
「神谷芙佐訳」という文字がまぶしかった。
それからは、文字通り、ねじり鉢巻きの日々になった。夏は冷房がないので、水に浸したタオルを頭に巻いて、翻訳に追いかけられることになる。
「S-Fマガジン」に掲載する作品を選ぶ手伝いもすることになり、翻訳のかたわら、リーディングにも追いかけられた。興味をひいた作品のあらすじを話すために、連日のように編集部に足を運んでいた。
このころになると、早川書房は現在の地に新しい社屋が建っていた。2階の広い部屋には、各編集部の机がコの字型に並び、仕切りもなく、まんなかにひろびろとした空間があいていた。
SFの編集部の向かいは「EQMM」の編集部。神谷はチラチラとそちらに視線をやりながら、ミステリの注文がこないかなあと、ひそかに念じていた。
当時、SFの翻訳者は不足していた。日本にSFを根づかせた福島正実は、「S-Fマガジン」創刊当時の翻訳事情について、こう記している。
「一応の企画をまとめ、実際に原稿依頼に動きはじめたのは、たぶん(引用者注:1959年)五、六月頃からだったろう。......夏の暑いさなかを、二人(引用者注:期限付きで手伝ってもらった雑誌編集経験のある翻訳家・三田村裕と福島正実)は足まめによく歩いた。/翻訳者の不足に頭を悩ましたことも、この頃の重要な思い出の一つである。......早川書房は、かなりの数の翻訳家を擁していた。しかし、そのほとんどはミステリーが専門でSFについては殆ど知識も関心も欠いていた。彼らはむしろ、SFを依頼されることを恐れさえした。....../ぼくとしては、何とか、目ぼしい翻訳家たちを、SF好きにするしかなかった。....../大久保康雄、宇野利泰、井上一夫、中田耕治、田中融二、高橋泰邦、小笠原豊樹、稲葉明雄、峯岸久、田中小実昌、小尾芙佐、それに同僚だった小泉太郎(生島治郎)や常盤新平......村上哲夫、大門一男、ロシア文学者袋一平さんら──みんな、その頃ぼくから、SFがいかに翻訳家の仕事として価値あるかの長広舌を聞かされて、うんざりした経験をお持ちのはずである。」
(『未踏の時代 日本SFを築いた男の回想録』福島正実著、早川書房 1977→2009より)
同じ号に複数の作品を訳すこともあり、同じ名前ではまずいということで、ペンネームを考えたりした。
1961年12月号「S-Fマガジン」に次の3作品が掲載されている。
翻訳者は同一人物、神谷芙佐である。
ミステリヘの愛着を断ち切れぬ神谷に、ミステリの長篇も少しずつ与えられ、『レアンガの英雄』(アンドリュウ・ガーヴ、1961)、『死の目撃』(ヘレン・ニールスン、1961)、『ささやく街』(ジャドスン・フィリップス、1963)などを手がけた。
SFに関しても、アイザック・アシモフのロボットシリーズやウィリアム・テンなど、自分好みの作品や作家も現れ、やがてフィリップ・K・ディックの『火星のタイム・スリップ』(1966)、アーシュラ・K・ル=グインの『闇の左手』(1972)、アン・マキャフリイの「パーンの竜騎士」シリーズなどにもめぐりあえて、仕事が楽しくなっていた。
1961年2月号(創刊1周年特大号)に掲載されたダニエル・キイスの中篇「アルジャーノンに花束を」(稲葉由紀訳)を読んだときは感動した。
「読んだ翌日に編集部にすっとんでいって、"SFにもこんなに素晴らしいものがあるんですね"と福島さんに詰め寄っていました。ミステリに気持ちが向いていたとはいえ、ずいぶん失礼なことを言ったものですね。それでも福島さんは、"そう、あるんですよ"と、それはうれしそうな顔をなさいましたね」
それから十数年たったある日のこと、編集部を訪れると、福島が1冊の本をとりだし、「これ、訳してみませんか」とさしだした。見ると1966年刊行の長篇の『アルジャーノンに花束を』だった。
ぜひ、やらせてください、と神谷は答えた。1978年に翻訳出版した『アルジャーノンに花束を』は、現在も版を重ねるロングセラーになった。
翻訳についての勉強はどのようにしたのだろうか。即、実践だったので、勉強する
でき上がった翻訳について、ここはこうしたら、というようなアドバイスをもらった記憶はない。
「ただただ、ひたすら訳すだけの毎日でしたね」
活字になった自分の作品をじっくり読みなおす時間もなかった。手元にはいつも、すぐに訳さなければいけない本が2、3冊積まれていた。
原文を読み、作品の心を読み解き、日本語におきかえる作業のくりかえし。福島編集長は神谷に、何度かこんなことを言っている。
「あなたの仕上げた原稿は、こちらの予想している枚数より少ない。いつも短めなんだ。ほかの訳者はそんなことはないのに、なぜだろう」
なぜだか本人にもわからなかったそうだが、これは、神谷の翻訳の特徴を言い得ていたかもしれない。(4回表につづく)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社
)『満心愛の人』(インパクト出版会)ほか。