2014.07.22

連載「”不実な美女”たち──女性翻訳家の人生をたずねて」(vol.1 小尾芙佐さんに聞く 5回表)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。 〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月5日・20日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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光文社古典新訳文庫では『ジェイン・エア』『高慢と偏見』を手がけた小尾芙佐さん、初めての翻訳が活字になったのは1960年、創刊まもない「S-Fマガジン」(早川書房)誌上、旧姓である神谷芙佐の名前でした。その後も、アシモフのロボットシリーズ、ロングセラーになった『アルジャーノンに花束を』やスティーヴン・キングの『IT』などさまざまな作品を訳してきました。「SF翻訳家」と称されることが多いものの、意外なことに、もともとはSFが好きだったわけではなかったそうです。小尾さんの道のりを5回に分けて掲載します。また、小尾さんが愛読した本、訳した本の紹介など、関連するコラムを"裏の回"としておおくりします。
(文中に登場する方々のお名前は敬称を略させていただきます)

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小尾芙佐(おび ふさ)さん プロフィール
1932年生まれ。津田塾大学英文科卒。翻訳家。訳書に『闇の左手』(ル・グィン)、『われはロボット』(アシモフ)、『アルジャーノンに花束を』(キイス)、『IT』(キング)、『消えた少年たち』(カード)、『竜の挑戦』(マキャフリイ)、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(ハッドン)、『くらやみの速さはどれくらい』(ムーン)、『ジェイン・エア』(C・ブロンテ)『高慢と偏見』(オースティン)ほか多数。

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5回表 不可能なことを可能にしなければ

ある日、早川書房の編集部を訪れると、福島正実編集長が晴れ晴れとした笑顔で現れ、「きょうはいい人に会いに行くんです」と告げた。それが、浅倉久志だった。

すでに「S-Fマガジン」で翻訳をしていた伊藤典夫とともに、SF同人誌の同人でもあった浅倉久志は、会社員を辞めて翻訳家になる。SFに対する情熱と造詣の深さは、だれも及ばない。小尾にとっても救いの神、これまでほどSFの翻訳に追われることがなくなった。

img_fujitsu05_02.jpgおかげで、『第三の女』(クリスティー、ハヤカワ・ポケットミステリ1970)、『ママは何でも知っている』(ヤッフェ、ハヤカワ・ポケットミステリ、1977)など、ミステリの長編も手がけるようになる。

当時は、出版記念会などパーティーがよく開かれ、その席上で、伊藤典夫や浅倉久志とよく話をした。伊藤典夫訳、カート・ヴォネガット・ジュニアの『猫のゆりかご』を読んだ小尾は、たちまちヴォネガット・ファンになる。

この二人に、キャロル・エムシュウィラーの「順応性」(「S-Fマガジン」61年9月号掲載)の訳を褒められたときは、本当にうれしかったという。

「浅倉さんの音頭とりで、深町眞理子さん、大村美根子さん、山田順子さん、佐藤高子さん、鎌田三平さん、白石朗さんの総勢8人が集まり、深町さんが<エイト・ダイナーズ>と命名して、お酒と食事とおしゃべりを楽しみました」と懐かしむ。

2010年、浅倉久志は79歳で逝去した。<偲ぶ会>で小尾は、「仕事の上で困ったときは、いつも浅倉さんに電話して助けてもらいました」と語っている。

キングの「IT」でワープロを導入

これまでつきあいのなかった出版社からも仕事の依頼がくるようになった。

角川書店からはゴシック・ロマンのビクトリア・ホルト『流砂』(1971)、『女王館の秘密』(1977)、『愛の輪舞』(1982)など。珍しく女性からファンレターが何通も寄せられた。ファンタジーでは、ホールドストックの『ミサゴの森』(1992)がある。

ルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』(1984)は、都筑道夫、小泉喜美子などのミステリ作家に高く評価され、レンデル・ブームが起きる。『死のカルテット』(1985)『悪魔の宿る巣』(1987)『引き攣る肉』(1988)など、ミステリの翻訳を堪能した。

文藝春秋からは、ジュリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』(1987)のあと、スティーヴン・キングの「IT」(1991)を依頼された。あまりの長さに引き受け手がいないという原稿用紙3800枚のその大作を、小尾は即座に引き受けた。

上下2巻を2年がかりで翻訳しながら、キングのエネルギーに圧倒された。聞き慣れぬスラング、ことに子どもたちのスラングが飛び交っているので、アメリカで小学校の教師をしていた津田塾時代の友人に助けを仰いだ。

「大事なのは、原文を十二分に理解すること。疑問があれば、ネイティブをはじめ、その道の専門家に尋ねます。だから、原文を読み込むのに時間がかかります。翻訳にとりかかるのはそれから。何度も推敲を繰り返し、ゲラが出ればまた推敲。ゲラが真っ赤になって、担当の方に迷惑をかけます。でも、翻訳者にとって、優秀な編集者、校正者は宝です。彼ら、彼女らがいなければ、上質な翻訳の完成はありえません」

それまで手書きを続けていたが、「IT」に取り組むとき、ワープロの導入を決心した。書きこみが多く、原稿がきたないので有名な小尾なので、編集者たちからは喜ばれたらしい。

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4000枚近いキングの「IT」を引き受けることになって導入にふみきった初代ワープロと小尾さん。親指シフトだ。

児童ものの仕事も多い。これは、SFの理解者はまず子どもたちだと考えた福島正実たちが「少年文芸作家クラブ」を立ち上げ、岩崎書店や、あかね書房など、児童ものを出している出版社に売りこんだことが影響している。

小尾も、福島にすすめられて、翻訳したSFを児童向けにリライトしている。

img_fujitsu05_06.pngアシモフの『うそつきロボット』(初版の題名は『くるったロボット』)は今でも版を重ね、ほかにも、『ロボット自動車・サリイ』(アシモフ、以上岩崎書店)、『惑星ハンター』(アーサー・K・バーンズ)、『銀河系防衛軍』(エドワード・E・スミス、以上あかね書房)など。

早川書房から児童書として出版された『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン)は産経児童出版文化賞を受賞した。

SF以外ではソーン『キュリー夫人 知と愛の人』(文研出版)やパール・バック『大地』(集英社)なども、原作から子ども向けに抄訳している。

学生時代に歯が立たなかった古典に取り組む

2005年、光文社から声がかかった。以前、光文社のミステリ雑誌「EQ」(1977年〜1999年休刊)から短篇を頼まれたことがあったが、今回は古典新訳文庫の企画だった。

さまざまな分野を手がけてきた小尾だが、英文学の古典は未知の世界。作品は、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』だ。何十年ものあいだ、多くの先達が取り組み、多くの読者を得て、映画化もされている古典の新訳である。ためらいもあったが、原書を読み進むうち、登場人物、時代背景、イギリスの自然など、イメージがふくらんでいった。ロチェスターとジェインの魅力が、仕事を押し進めてくれたようだ。

2006年に新訳『ジェイン・エア』が刊行された(2013年に再版)。

「次は、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』ですね」と編集者に言われたときは、さすがの小尾も即答できなかった。津田塾時代にテキストとして読まされた作品、あまりの難しさに、最後まで読み通すことができず、楽しめなかった。そうした印象が、頭に刷り込まれていた。

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『ジェイン・エア(上・下)』(C・ブロンテ、2006年11月刊)
『高慢と偏見(上・下)』(オースティン、2011年11月刊)

だが、未知への挑戦が小尾の心をかき立てた。「SF翻訳家の小尾さんが、なぜ?」と首をひねった読者もいたようだが、この作品に対する特別な愛着については、「訳者あとがき」に綴られている。

原書を読み始めると、原文の独特の長い構文に悩まされた。読み解くだけで、1年ほどの歳月を要した。いざ翻訳にとりかかると、さまざまな疑問が生じた。あの時代、さまざまな環境に生きる人々の言葉遣いにも苦労した。

エリザベスとダーシーが、心を開き合い、親しくなってからの微妙な変化も、会話に現れなければならない。

「苦労はしましたが、むかし好きだった戯曲を訳しているような心地がして、楽しかったです」

休みなしに、拒むことなく翻訳をつづけてきた

結婚式と出産の前後を除けば、ほぼ休みなしに、ずっと翻訳を続けてきた。

夫は死の前年、付箋をつけた1冊の本を小尾に渡した。それはギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』だった。

「私がイギリスに生まれたことをありがたく思う多くの理由のうち、まず初めに浮かぶ理由の一つは、シェイクスピアを母国語で読めるということである」(岩波文庫、平井正穂訳、1951)

この一文に傍線がひかれていた。

もし翻訳でしかシェイクスピアを読めないとしたら、「ぞっとするような絶望感」を覚えると言っているのだ。

「翻訳という仕事は、異なる文化のしみついた言葉を、別の異なる文化のしみついた言葉におきかえていくこと。ライクロフト氏に言わせれば、不可能なことをあえて可能にしなければいけない仕事なんです。読者に絶望感を覚えさせるようではいけない、心して仕事をせよ、という夫のメッセージだったのだと思います」

長い間、翻訳を続けてきたおかげで、最近は四十数年前に訳した自分の作品が改版になり、手を入れるよう出版社から依頼される機会がある。

原書と1行1行照らし合わせながら訳文を見直していくと、ゲラはそれこそ赤字で真っ赤になる。当時の翻訳の未熟さもあるが、言葉が時代とともに古びていくのを実感できるという。

若いひとが知らないような言葉、もはや社会に受け入れられない言葉もある。しかし、若いひとが知らないから使わないというのもおかしい。若者が学べばよいのだと小尾は考えている。使わなくなれば、言葉が貧しくなってしまう。

「これまで、自分から出版社に作品を持ち込んだことは、一度もありません。いつも与えられるものを、一度も拒むことなく訳してきました。でも、幸いなことに、"これは小尾さんに訳してもらいたい"という編集者からの特別のご指名が、間々ありました。それが、『アルジャーノンに花束を』や『IT』であり、『消えた少年たち』や『くらやみの速さはどれくらい』であり、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』でした。
訳書は百冊を越えていますが、近ごろ、たとえ求められることがなくても、これだけは訳しておきたいと思う作品に出会うことができました。幸せに思っています」

休むことなく、拒むことなく、継続してきた。きょうもまた、小尾はゲラに向かっている。

次回は5回裏・関連コラムです。

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社 )『満心愛の人』(インパクト出版会)ほか。

ジェイン・エア(上)

ジェイン・エア(上)

  • C・ブロンテ/小尾芙佐 訳
  • 定価(本体840円+税)
  • ISBN:75113-5
  • 発売日:2006.11.9
  • 電子書籍あり

高慢と偏見(上)

高慢と偏見(上)

  • オースティン/小尾芙佐 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:7752403
  • 発売日:2011.11.10
  • 電子書籍あり

幸福な王子/柘榴の家

幸福な王子/柘榴の家

  • ワイルド/小尾芙佐 訳
  • 定価(本体880円+税)
  • ISBN:75347-4
  • 発売日:2017.1.11

 

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