2015.10.01

連載「”不実な美女”たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(1)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代から、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さん、vol.2の中村妙子さんに続き、連載シーズン3は、深町眞理子さんです。

深町さんのライフワークともいえる「新訳版シャーロック・ホームズ全集」全9巻が、9月30日刊行『恐怖の谷』でついに完結となりました(東京創元社)。

"世に「出たがり屋」という種族がいるとしたら、私は「出たがらな屋」ですから"──とおっしゃる深町さんに、「そこをなんとか」とお願いして、このシリーズにご登場いただくことになりました。シャーロック・ホームズ全集完結という記念すべき時期に合わせてスタートできることを嬉しく思います。

深町さんは、光文社古典新訳文庫ではジャック・ロンドンの『野性の呼び声』『白い牙』を手がけられています。アガサ・クリスティーをはじめとするミステリーや『アンネの日記』などの翻訳を愛読してきた読者も多いことでしょう。

深町さんの人生の軌跡にも、戦争が大きな影を落としています。

「新訳版シャーロック・ホームズ全集」全9巻 『恐怖の谷』(東京創元社)
深町さんが、アーサー・コナン・ドイルによる<シャーロック・ホームズ・シリーズ>9巻の全巻個人訳に取り組み始めたのは2009年のこと。最初の巻『シャーロック・ホームズの冒険』(2010年2月刊)から、足かけ7年の快挙です。
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深町眞理子さんの書斎。(撮影:大橋由香子)
1回 父の転勤で転校4回、本が最高の友だちだった

深町眞理子さんは、1931(昭和6)年、東京で生まれた。

父は、群馬県前橋市の商家の三男として生まれ、幼いころから"西洋音楽"に興味を持っていたが、時代的にも、地方の商家の三男坊という環境からも、それで身を立てることは、かなわぬ願いだった。

慶應義塾大学経済学部に入学すると、すぐにギターを始め、マンドリン・クラブで部活動にいそしんだ。関東大震災のときには、ちょうど北海道に演奏旅行に行っていたため、無事だったという。おなじクラブでマンドリンを弾いていた学友の妹と結婚。彼女がすなわち深町さんの母である。

母は、2代前までは将軍家直参の御家人だったという江戸っ子で、下町の木挽町界隈で育った。生家は製本工場を営んでいたが、大震災後に、水道橋駅の北側の川べりに引き移った。法事かなにかでこの家を訪れたとき、工場の上の3階の住まいの窓から、神田川の流れを見ていた記憶が、幼い深町さんにはかすかに残っている。窓から見る川は、幼い身には洋々たる大河に見えたとか。

父は大学卒業後に生命保険会社に就職、転勤が多かったため、一家は何度も転居を重ねることになる。最初は杉並の阿佐ヶ谷に住んでいたが、深町さんが3歳のとき、広島に引っ越した。ここで弟が生まれた。

父は就職後も、趣味としてのギター演奏はつづけていた。広島勤務時代には、ある女性流行歌手の伴奏でラジオに出たこともあるし、年に2回は、所属している軽音楽クラブの演奏会もあった。演奏会の最後に、指揮者に花束を持ってゆく役目は、いつも幼い深町さんが務めた。

1937(昭和12)年秋、父は当時日本の統治下にあった朝鮮の京城(現在の韓国ソウル)に転勤になり、さらに2年半後には、おなじ朝鮮・全羅南道の光州(現クワンジュ)に転任した。ようやく内地(日本本土のことを、外地では当時こう呼んでいた)に戻ったのは、さらに2年後の1942(昭和17)年、今度は練馬の石神井川のほとりに住んだ。

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石神井川で野菜を洗う女性。(1940年 練馬区所蔵)

川べりの道を、上流にむかって20分ほど歩くと、豊島園に達する。夏には毎日のようにこの道をたどって、豊島園のプールにかよった。自宅前の石神井川で泳いだことも何度かある。

そして1944(昭和19)年2月、父はふたたび朝鮮の京城へ転勤になり、翌年、ここで敗戦を迎えた。

Meijiza, Keijo, 1941
京城にあった明治座(1941年)
本が大好き。キーワードは旅と不思議。

このように、ほぼ2年刻みで各地を転々とし、小学校(途中からは国民学校)だけで、4度も転校を重ねた。どんな子どもだったのだろうか。

「とにかく、本の好きな、というか、本ばかり読んでいる子どもでした。小学校2年生くらいまでは、読めるものはなんでも読んでいたという感じです」

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『絶世奇談 魯敏遜漂流記』
ヅーフヲー作 井上勤訳 博聞社
 1883 ©National Diet Library,2000

と深町さんはふりかえる。

2、3歳のころに好きだった本は、雑誌「キンダーブック」や『ちびくろサンボ』で、『ちびくろサンボ』の最後で虎が溶けてバターになってしまうところは、とくに気に入って、くりかえし読んでいたし、「キンダーブック」によく掲載されていたラグーザお玉の絵は、いまも目に浮かぶ。

小学校1、2年生までに、世界名作童話や昔話のたぐいはほとんど読破した。"好み"が出てくるのは、小学校3、4年生ごろからで、月に1度、本を買ってもらえる日には、学校から走って帰ると、母をひきずるようにして書店へ行き、さんざん迷ったすえに、読みたい本を選びだす。

それだけではとても足りないから、数少ない友だちを拝みたおして借りる。そんな毎日だった。

そのころ親しんだ本は、『青い鳥』『ピーター・パン』『母を尋ねて三千里(クオレ)』『フランダースの犬』『家なき子』『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』『十五少年漂流記』『宝島』『黒馬物語』『乞食王子』『鉄仮面』『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』などの外国作品と、南洋一郎や高垣眸の南洋探検や猛獣狩りの物語だった。

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『史外史伝 巌窟王』デュマ作 黒岩涙香訳 扶桑社 1905 ©National Diet Library,2000

「こうして見ると、"旅"と"不思議"とがキーワードになっていたように思います。冒険や漂泊、漂流と遍歴と探索の旅、そしてその旅の果てに行きつく大団円。ある意味で、ミステリーを解く楽しみに通じるところがありますね」

子ども時代の自分を、深町さんはこう分析する。

「口べたで、ひとづきあいが苦手、そのくせ自尊心の強さは人一倍だから、ここでブリっ子したほうが得だとわかっていても、ぜったいにしない、できない。要するに"かわいげのない"子ども。おのずと対人関係で誤解されたり、傷ついたりすることが多く、友だちをつくることに臆病になっていたと思います。転校が多かったという環境も、友だちができにくい一因だったかもしれません」

とはいえ、けっして孤独ではなかった。本という最高の友だちがあったから。

数多く読んだなかでも、いちばんのお気に入りは、好きな本のキーワードがそのままタイトルになっている『ニルスのふしぎな旅』だった。

魔法で小さくなったニルスが、鵞鳥の背中に乗り、スウェーデン中を旅しながら成長してゆく物語にわくわくさせられたが、のちに、幼時に読んだのは完訳ではなく、抄訳本で、また本来の内容も、スウェーデンの歴史や地理を紹介しながら、同時に自然保護をも訴えることを目的としたものだと知った。作者はスウェーデンの女性作家、ノーベル文学賞受賞者でもあるセルマ・ラーゲルレーヴである。

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『飛行一寸法師』ラーゲルレーフ作 香川鉄蔵訳 大日本図書出版 1918 ©National Diet Library,2000
「ニルスの不思議な旅」の日本初の翻訳本と思われる。原作上下巻の上巻のみの翻訳。
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『ピーターパン』「小学生全集」全88巻 興文社・文藝春秋社
 1927ー1929 のなかの1巻より ©National Diet Library,2000
(以上、表紙や挿画の写真は『子どもの本・翻訳の歩み展展示目録』国立国会図書館 編集・発行 2000より)
深町さんが読んだのが、これらの出版社や訳者の本だったかどうかはわかりませんが、戦中・戦前の子どもたちは、海外の物語から、独特の雰囲気を味わっていたのかもしれません。
ハイカラ好みの父とピアノ、そして戦争

子ども時代の深町さんには、苦手なものがもうひとつあった。ピアノの練習である。

「ぼくのようにおとなになってから始めたのでは、所詮、あるレベルにまでしか達しない。だから娘には小さいうちからびしびし仕込むのだ」

これは、音楽で身を立てる夢がかなえられなかった父の口癖である。

深町さんが4歳半のとき、父がピアノを購入した。当時の住まいは、広島の段原山崎町というところにあり、この家から週に2回ほど、母のお手製の楽譜袋をさげて、ピアノの先生のところにかよった。グレイの地色の袋には、臙脂(エンジ)色の音符のアップリケがほどこされていた。先生の家のレッスン室は、庭に面した側が全面ガラス張りで、観葉植物がたくさん置かれ、ハイカラな雰囲気だったことを深町さんは覚えている。

それから9年にわたって、深町さんはピアノを習いつづける。父の転勤にともない朝鮮半島に行ったときには、ピアノを入れる専用の大きな木箱がつくられ、その箱に入れられてピアノは海を渡った。箱を運びだして、新居に運び入れるときは、その重さがいつも運送屋さん泣かせ。それでも父は、転勤のたびごとに、おなじこの木箱を使って、ピアノを運ばせた。

新居に落ち着くと、まずはピアノの先生を探す。そしてその先生に紹介された調律師さんにきてもらい、そのうえで、やっとピアノの練習が再開される。

父は熱心なあまり、ピアノに関するかぎり、終始スパルタ式の教育方針をつらぬいた。

日曜日には、ピアノのそばにつきっきりで、深町さんの練習を見ている。ちょっと弾きまちがえると、深町さんの小さな手を、上から拳固で思いきりたたく。ピアノはがーんとものすごい音をたてる。深町さんは手の痛さに堪えながら練習した。朝鮮半島は大陸性気候だから、冬の寒さはきびしい。暖房も行き届いてはいなかった時代だ。弾いていると、キーの冷たさで指先が凍ったようになる。そのかじかんだ手を、拳固でたたかれる。練習はいつも泣きべそをかきながら、だった。

音楽を愛する父は、もとより軍国主義者ではなかった。日本が戦争への道を突き進んでゆくこの時代、同級生には、昭和にちなんだ昭子、和子、男の子なら忠義、孝行、そんな名前が多いなか、眞理子という西洋ふうの名をつけるリベラルな人間だった。当然ながら戦争には反対で、1943(昭和18)年ごろから、内輪の席では、この戦争は負ける、とよく言っていた。そう言いだしたのは、文科系学生・生徒の徴兵猶予制度が廃止され、慶應大学の後輩たちが、ペンを銃剣に持ちかえて雨のなかを行進する、その学徒出陣壮行式の模様をニュース映画で見てからではなかったか、と後年、深町さんは推測している。

新し物好きでリベラルな父が、ピアノに関してだけは、こんな体罰まがいのスパルタ式教育をする。いささか奇異に感じられるが、自分の果たせなかった音楽家の夢を、なんとか娘に実現してほしいという願望の強さからだったのだろうか。

(2回につづく)


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現在の水道橋駅北側の川べり(撮影:大橋由香子)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

野性の呼び声

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  • ロンドン/深町眞理子 訳
  • 定価(本体680円+税)
  • ISBN:75138-8
  • 発売日:2007.9.6
  • 電子書籍あり
白い牙

白い牙

  • ロンドン/深町眞理子 訳
  • 定価(本体914円+税)
  • ISBN:75178-4
  • 発売日:2009.3.12
  • 電子書籍あり

 

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