幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)
お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんから3ヶ月余、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年生まれの中村さんは、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。
子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)
4月15日夜の蒲田での空襲で一命をとりとめ、1945(昭和20)年8月15日終戦を迎えた中村(旧姓・佐波)妙子さん。「ああ、これで空襲がなくなる!」といううれしさがこみあげた後、中村さんは、新しい仕事に就く。
戦後は、内幸町の放送局のなかに駐留軍(連合国)総司令部(GHQ)の民間情報教育局があって、そこに知りあいがいたので、短いものを訳してみる試験を受けました。無事、採用になったので、すぐにタイプライターを支給されて、日本の新聞の社説や記事の英訳をしました。
GHQ宛ての日本人からの投書や嘆願も英語に訳しましたよ。何を訳すか、選ぶことはできません。GHQの担当者に「こういうのを訳してほしい」と命じられたものを、右から左に機械的に訳すのです。大意だけとって要約することもありました。課長さんだけがニュージーランド人で、ほかの職員は日本人でした。日系2世の方もいらしたかな。駅から通いやすいし、お給料もよかったし、いい職場でしたよ。
タイプライターは、津田では戦争が始まっていたので習っていなかったのですが、卒業後、お茶の水にあったタイプ学校にひと月通ったのが、役立ちました。
翻訳に関連する仕事をしていたがゆえに、自分が本当に訳したいものがどのようなジャンルなのか、はっきりしてきた。物語や子どもの本を、それも仕事でやっている日英(日本語から英語)ではなく、英語から日本語に翻訳したいと思った。
訳した原稿を「少女の友」に持ち込み、連載が決まる。
戦後、英語の本が出回るようになったときに、高円寺の古本屋で原書を何冊か買いました。そのなかに、スイスのヨハンナ・シュピーリ著の『ヴィルデンシュタイン城』の英語訳 Maxa's Children『マクサの子どもたち』があったんです。読んでいるうちに翻訳したくなり、少しずつ訳していきました。
どこかで出版してもらえないかと考えたときに、女学校のころに投稿していた「少女の友」を思い出しました。それで、本の概要と自己紹介の手紙を編集部に出してみたんです。そのころは、まだ翻訳したいという人が珍しかったんでしょうね。あるとき、職場に編集部の方が訪ねてこられて、思いがけず「少女の友」に10か月、連載の形で載ることになったんです。
1947(昭和22)年のことだ。個人宅にはもちろん電話が普及していないし、直接訪ねるというのが、その頃は当たり前だった。
「来年の新年号から連載しましょう」と編集部の足立豊子さんに言われ、中村さんは張り切って訳を仕上げた。
連載が終わると単行本になり、やがてNHKラジオの児童劇にもなった。
ですから、私の最初の翻訳が活字になったのは、1948年1月の「少女の友」の連載ですね。2年後の1950年、この連載をまとめた『マクサの子どもたち』が新教出版社から出ました。
その前に、やはり高円寺で買った古本 Silver Skates の訳書メアリー・メープス・ドッジ『銀のスケート』が出ています。「少女の友」編集部の足立豊子さんが設立した、こまどり書苑から出して下さって、刊行が1948年12月ですから、最初の単行本はこの『銀のスケート』になりますね。ところが、この出版社はすぐにつぶれてしまって、本屋さんに並んだのかどうか、よくわからなかったの。
初めて本の翻訳を始めた記念すべき1947年には、ほかにもニュースがあった。
4月、中村さんは、英語科高等教員検定試験を受けて合格している。戦前は、ごく一部を除き、公立大学入学が認められていなかったなかで、英語科について、大学卒業と同程度の学力を認める唯一の試験と言える。
「わたしも実は大学に進みたかったのだが......そんな我侭が許されるわけもなく、自分で何とか勉強を続けて行くことにしようと考えるようになっていた」という中村さんの、具体的な目標が、この試験だったのだ。この試験についての中村さんの思い出を、『三本の苗木』から少し引用してみよう。
「わたしがこの試験の存在を知ったのはまだ恵泉にいたとき、母のもとに送られてきた津田の同窓会報で、かねてからお名前を知っていた前田美恵子さんの検定合格について読んだときのことだった。それ以来、この試験のことが頭のどこかにこびりついていたらしく、当面のゴールとしてこれをと思いついたのだろう」
前田美恵子さんは、結婚により姓が変わり、神谷美恵子となる。ハンセン病療養所で 精神科医として働き、著作や翻訳書もたくさんある。その神谷恵美子さんが、結核にかかり療養している間、英語科高等教員検定試験の参考書目を熱心に読み、1935年、21歳 という最年少の女性合格者になっている。
中村妙子さんと津田英学塾の先輩・神谷美恵子さんは、ほかにも不思議な縁で結ばれているのだが、話を元に戻そう。
難関で知られるこの試験には、和文英訳のほかに、口述試験もある。単語を40ほど並べた紙を渡され、読んで即座に説明するというもの。
「Pocahontas という名があって、これは恵泉のときの会話の時間に読んだ Fifty Famous Stories に出てきたインディアンの少女の名だと思い出した。もう一つ、記憶に残っているのは'campus'という単語。今ならキャンパスとカタカナで通じる大学の構内とか、校庭の意味だが、わたしは苦しまぎれに、宗武志氏**と読んだラテン語の教本に出てきた単語を思い出して、『あのう、ラテン語では平地という意味ですけど』と蚊の鳴くような声で答えたのだった」
イギリス人試験官には、「合格したらどこかで教えるつもりか?」と質問され、
「教えるつもりはありません。この試験はわたしにとって一つのゴールでした」
と答えた。
津田塾を繰り上げ卒業した1942年秋から満5年が経過していたが、そのうち3年は戦争の渦中にあった中村さん。教育制度が改革されようとするなかで、「おそらくこれが最後の高等教員検定ではないかと、ひとしおの感慨があった」とも書いている。
そして、この試験勉強は、英語力のスキルアップにもなった。
1947年には、結婚もしている。シェイクスピアの研究会をお願いした中野好夫先生の紹介で、静子夫人の弟、東大文学部西洋史学科の助手の中村英勝氏と。
この結婚によって、中野好夫先生は、義兄となったわけだが、中村さんにとっては、その後もずっと「中野先生」であった。
*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。
**宗武志氏は戦争中、情報局の戦時資料室に嘱託として勤めていたとき、中村さんにラテン語を教えてくれたことがある。
構成・文/大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。