幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代から、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月1日更新)
*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。
お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さん、vol.2の中村妙子さんに続き、連載シーズン3は、深町眞理子さんです。
深町さんのライフワークともいえる「新訳版シャーロック・ホームズ全集」全9巻が、9月30日刊行『恐怖の谷』でついに完結となりました(東京創元社)。
"世に「出たがり屋」という種族がいるとしたら、私は「出たがらな屋」ですから"──とおっしゃる深町さんに、「そこをなんとか」とお願いして、このシリーズにご登場いただくことになりました。シャーロック・ホームズ全集完結という記念すべき時期に合わせてスタートできることを嬉しく思います。
深町さんは、光文社古典新訳文庫ではジャック・ロンドンの『野性の呼び声』『白い牙』を手がけられています。アガサ・クリスティーをはじめとするミステリーや『アンネの日記』などの翻訳を愛読してきた読者も多いことでしょう。
深町さんの人生の軌跡、いよいよ翻訳家としての充実期を迎えます。
深町眞理子さんの最初の訳書は、1964年5月に刊行された、アンドリュウ・ガーヴ『兵士の館』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)。アイルランドの歴史に材をとったエスピオナージュだった。
同年10月には、シャーリイ・ジャクスン『くじ 異色作家短篇集17』(早川書房)も出た。
こうして早川書房から、ミステリーとSFをつぎつぎに翻訳・刊行してゆき、やがて 1970年には、角川書店からハン・スーイン『慕情』を、72年には、東京創元社からジェーン・ギャスケル『アトランの女王』3部作と、草思社からアリシア・ベイ=ローレルの絵入り・手書き文字の本『地球の上に生きる』を、75年には二見書房からノーマ・クライン『サンシャイン』(これも映画の原作)を、78年には、パシフィカからスティーヴン・キングの『シャイニング』をと、仕事先の出版社も、手がける作品のジャンルも、しだいにふえていった。
「ミステリーは好きですし、好きだったことが、翻訳の仕事を始めるきっかけになったのも事実です。SFよりは、作業中のしんどさというか、気骨の折れかたもずっと少なくてすみます。でも、翻訳者として作品に向かう以上は、個人の好き嫌いの感情を持ちこんではいけないし、不得手な分野だからうまくいかない、などという弁解は、いっさいしないというのが、プロとしての基本態度だと思います」
心に残る翻訳作品は、たくさんある。
読者としても、訳者としてもいちばん好きなのは、アガサ・クリスティー。理由は、楽しく読めるから。エルキュール・ポワロとミス・マープルと、ふたりの主人公のうちでは、女性に人気の高い後者よりも、ポワロのほうがお好みだという。
いっぽう、翻訳はたくさん手がけているものの、ルース・レンデルは、じつはあまり好きではない。
ホラーも(だからスティーヴン・キングも)あまり好きではないが、キング作品の、細部をとことん描写しきる凄さというか執拗さ、それを翻訳することには生き甲斐を感じるという。
「私の観点から見て"いい仕事"とは、原著の価値や評価とはべつに、著者がなにを語っているかだけでなく、いかに語っているか、それを余すところなく表現できた(と思う)仕事です」
そういう意味で、『アンネの日記』は、自分なりの評価のうえで、まあまあだったと 思っている。
世間一般に浸透しているアンネのイメージよりも、実際にははるかに率直で、激しい気性、鋭い人間観察と、おとなも顔負けの批判精神、この年ごろの少女としてはごく自然な、性への関心、そういうものを彼女自身の口調で、言いまわしで、その息づかいまでも感じられるように訳すという本来の方針を、ある程度までは実現できていると思うからだ。
近年の仕事としては、光文社古典新訳文庫で出したジャック・ロンドンの『野性の呼び声』と『白い牙』の2作があり、さらにその後は、東京創元社の創元推理文庫で、かの永遠の名探偵シャーロック・ホームズのシリーズ全9巻の、全巻個人訳に取り組んできた。
いずれも愛着のある作品だからこそ、ひきうけた仕事にほかならない。
ジャック・ロンドンは、タトル商会に入社したばかりの、まだ講道館ビルに事務所があったころ、会社が戦前から戦中にかけて日本で出版された翻訳書を買い集め、アメリカに送っていたことがある。
そうして送る予定の本のなかに、戦前に出たロンドンの翻訳書もまじっていて、それを借りて読み、おおいに感動した思い出があるため、光文社から「なにか訳したい古典はないか」と声をかけてもらったとき、まずこれを挙げたという。
いっぽう、シャーロック・ホームズ・シリーズは、およそミステリーの翻訳にたずさわるものなら、だれもが手がけてみたい作品だろう。
著作権の関係で、阿部知二氏訳による創元推理文庫版には、最終巻『シャーロック・ ホームズの事件簿』が欠けていた。1990年に、作者アーサー・コナン・ドイルの死後60年が経過し、著作権の縛りがとれたため、すでに鬼籍にはいっていた阿部氏にかわって、深町さんが起用された。
これで創元推理文庫版には晴れて全巻がそろったわけだが、以来さらに20年がたつころから、光文社古典新訳文庫をはじめとして、古典を新しい翻訳で読みなおそうという趨勢がひろがり、ホームズ・シリーズも、全巻が深町さん訳に切り替わることになった。
「深町を訳者として起用してくださった東京創元社のかたがたには、いくら感謝してもしきれません。あとはただ、その嘱望にこたえられるよう、すこしでもいい翻訳をと心がけるのみです」
今回の取材で深町さんのお宅に伺った2015年6月時点では、全9巻のうち7巻までは刊行ずみだったが、2015年9月末には8巻めの『恐怖の谷』が刊行された。
その後は、25年前の『シャーロック・ホームズの事件簿』の訳に手を入れながら、新たにパソコンで訳稿をつくる作業に追われている。
「翻訳とは、作者がなにを語っているかだけでなく、いかに語っているかを伝えることができて、はじめてその名にあたいする作業だということ、これは先に述べたとおりです。では、その"いかに語っているか"をいかに語るか、これにはそれなりの"芸"が必要だとわたしは思っています」
と深町さんは言う。
そして、自著『翻訳者の仕事部屋』(ちくま文庫)のなかでは、こんなふうに書いている。連載4回目の最後の言葉は、翻訳に関する深町さんのこの言葉で締めくくりたい。
「"芸"だなんて、役者じゃあるまいし、などと言ってはいけない。おなじハムレットを演じても、三人の役者が演じれば、三人のハムレットが彼らの肉体を借りて舞台の上で生きはじめる。三人のちがいを、それぞれの役者の"芸"のちがいと言わずして、なんと言いましょうや。訳者とておなじこと。まことに──これはわたしのかねてからの持論ですが──訳者は役者であるのです」
「役者は、普段はどうでも、舞台さえよければ名優。訳者も作品こそがすべて。そして"芸"には"正解"はなく、終点もないということ。なればこそ、虚実皮膜のあわいで、あっちに頭をぶつけ、こっちで足をすくわれ、『異文化の完全な移し替えなど不可能』と言われれば、お説ごもっともと頭をさげ、『翻訳者は反逆者(トラドゥットーレ・エ・トラディトーレ)』と言われれば、そんなものかとうなだれて、それでもなお舞台で踊るのをやめられない、そういう訳者にわたしはなりたい」
(次回・番外編に続く)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。