「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」すっかりご無沙汰してしまい、申し訳ありません。やっと、Vol.7お届けすることができます。これまで、ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さん、イタリア語の吉岡芳子さん、中国語の樋口裕子さん、ヒンドゥー語の松岡環さんにインタビューしてきましたこのシリーズ、今回は、フランス語を中心に英語の字幕翻訳も手がけ、映画評論家としても活躍なさっている齋藤敦子さんのご登場です。
フランス留学を経て、映画配給会社に勤務し、フリーランスになって字幕翻訳家・映画評論家になられた経緯、さらに、出版物の翻訳、国際映画祭の様子や映画業界における変化について語っていただきます。
まず1回目は、子ども時代、学生時代についてお聞きしました。
齋藤敦子さんプロフィール
さいとう あつこ フリーの映画評論家、字幕翻訳家。字幕翻訳作品は、『冬の旅』(1985制作)、『五月のミル』(1990)、『コックと泥棒、その妻と愛人』(1987)、『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015)、『記者たち~衝撃と畏怖の真実~』(2017)、『EDEN/エデン』(2014)、『山逢いのホテルで』(2023)ほか多数。2025年末にロードショー公開され一部映画館で上映中作品に『グランドツアー』(2024)『ペンギン・レッスン』(2024)がある。(末尾に詳細情報あり) 出版翻訳では、『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン著、新潮文庫(1993)、『シネマメモワール』ピエール・ブロンベル著、白水社(1993)、『カストラート』アンドレ・コルビオ著、新潮文庫(1995)、『世界の映画ロケ地大事典』トニー・リーヴス著、晶文社(監訳、2004)ほか。 フロリアン・ゼレールの戯曲〈息子 le Fils〉の翻訳で第14回小田島雄志翻訳戯曲賞受賞(2021年)。
〈構成・文 大橋由香子〉
〈Chapitre1〉
将来は外国に行きたいな、と思う映画好きな少女
静岡県沼津市に生まれた齋藤さんは、両親と兄の四人家族で育った。映画とのつきあいが色々な場面であったという。
「子どもの頃からけっこう映画を見ていました。全校生徒で見に行く映画鑑賞会みたいなものが、小学生の時も中学生の時もありました。地元の公立小学校、中学校に通ってましたが、先生が引率して映画館に『天地創造』(1966)を見に行ったら、アダムとイヴのところで裸が出てきて、みんながワーって騒いでいたのをすごく覚えています。今は学校で映画館に行くなんて、あまりないですよね。
父親は映画や本が好きな人で、東京で働いていた頃に映画や芝居や落語を楽しんでいたようです。『オーケストラの少女』(1937)を23回見たと自慢していました。父母が共に働いていたので、子どもは放任。お正月など特別な機会以外、一緒に映画を見に行ったことはありません。初めて映画を見たのはディズニーのアニメじゃなかったかな。字が読めなかった頃は母親が隣で字幕を読んでくれたことは覚えています。隣の人にうるさいと注意されてもめげずに囁いてくれました。『安寿と厨子王丸』(1961)や『わんばく王子の大蛇退治』(1963)など東映動画のアニメもよく見てましたね。
あと、テレビの名画劇場みたいな番組があって、学校から帰ってきて宿題なんかしながらよく見ていました。当時は、テレビで古い映画が見られる番組がたくさんありましたから。」
まだテレビ局が制作した番組が少なく、アメリカのテレビ番組や洋画を吹替にして放送していた。夜中の時間帯と昼過ぎの時間帯は番組がなくて「テストパターン」が流れていたことを齋藤さんは覚えている。
「日曜洋画劇場」など解説付きで洋画を見せるようになるのは、ずっと後のこと。淀川長治や荻昌弘、「小森のおばちゃま」こと小森和子、水野晴郎などがやがて有名になっていく。
「あと、おじいちゃんのお葬式の日に、お斎で大人たちがお酒を飲んで騒いでいる時に、上の兄の提案で、兄妹従姉妹で映画を見に行こうということになり、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)を行きました。スカラ座だったと思います」
齋藤さんの家は街中にあり、東映劇場、東映パラス劇場、宝塚劇場、スカラ座など、映画館が6軒くらいはあった。
中学生になると、一人で映画を見に行くようになった。帰るのが遅くなっても、「映画を見に行っていた」と言えば「じゃあしょうがない」と、映画に寛大な親に怒られることはなかった。家は呉服店で両親とも忙しかったので、子どもにあまり干渉しなかった。父が買ってくれた世界文学全集のような本もあって、ユゴーやケストナーが好きで読んでいたそうだ。
そして、将来は外国に行きたいな、と漠然と思うようになっていく。特にどこの国がいいとか、この国の文化が好きということではなく、「なんとなく」という願望だった。
「私が高校生ぐらいの頃はヌーベルバーグの時代でしたが、地方都市にはアート系の映画が配給されることは少なく、それでもトリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)などフランス映画も見ていました。だからフランスも、行きたい外国として、ちょっと頭の中にあったかもしれませんね。」
フランス語ができないショックで京都の日仏学館へ
県立高校を卒業して大学へ進学するが、フランス文学やフランス語学科を選んだわけではない。歴史を学ぼうと思い奈良女子大学へ進み、哲学を学ぶことにする。
「奈良女ってとにかく小さな大学で、哲学専攻が二人しかいなかったんですね。私ともうひとり、やはり静岡県の人。ところが彼女は学生運動のほうに行っちゃって大学の授業に出てこない。私はわりと真面目に勉強していました。それで次の年にも哲学専攻は誰も入ってこなかったので、二年間ほとんど私一人という厳しい状況でした。
哲学の専任の先生は二人いらして、井上先生はイギリス哲学、川崎先生は中世の神秘主義。私が東洋の哲学に興味があると言ったら、川崎先生が、京都大学から先生をお招きして、新しくサンスクリットの講座を作ってくれたんです。本当はご自分がやりたかったのに、『君のために作ったんだから出なくちゃダメだよ』とか言われて(笑)、大変な目に遭いました」
ある意味、とても恵まれた学問環境にいた齋藤さんは、学生時代に京都に足しげく通っていた。奈良女子大で第二外国語でフランス語をとったものの、「できない」ことに悩んで、京都大学の隣にあった日仏学館に行くことにした。
「あまりにできなくて、ガーン!ってなって。将来は外国に行ってみたいと思っているのに、これは問題だと思いました。そういえば、中学でも高校でも英語が得意というわけではなかったし。それで2回生の時から日仏学館のフランス語の講座を取って京都に通っていたんです。フランス語をフランス人の先生に学ぶのが楽しいし、外国人と外国語で話すと、話し方みたいなものがわかってくる、それも面白かった。奈良から京都に行くのも楽しいし、それでフランス語の勉強も続いたんですね。」
京都では京一会館や祇園会館などの映画館に通った。オールナイト上映で「アメリカン・グラフィティ」(1973)を見た時の熱狂的な雰囲気が今も思い出に残っている。映画について書くことも好きで、同人誌などに原稿を載せていた。
大学卒業後は、先生の勧めもあって名古屋大学の大学院を受けて合格。しかし、自分の能力の限界を感じ、東洋哲学の道を歩むことはやめにした。
ではどうするのか? 外国へ行くことと、好きな映画がここで結びつき、フランスの映画学校に留学することにした。東京の欧日協会に行って、映画学校や語学学校の資料を集め、入学申請の書類をフランス語で記入して郵便で送った。
入学が決まり、フランスに渡ったのは1980年のことだった。
語学学校で学ぶフランス語と生きた言葉の差
その年はモスクワオリンピックの開催年。当時のロシア国名はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)で、資本主義の西側諸国と社会主義の東側諸国が対立する東西冷戦時代だった。1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻したことに抗議して、西側諸国がオリンピック出場をボイコットした。
「日本もボイコットしたから日本語のできる通訳者が余っていたらしくて、シベリア鉄道でソ連を横切るあいだ、ずーっと通訳みたいな人がついたんです。ミーシャという名前のロシア青年で、お目付け役でしょうね。すごく邪魔だったけど、それはそれで面白くて、横浜から船でナホトカへ渡り、そこから鉄道に乗り換えモスクワまで約一週間、その後、ユーレイルパスを使ってヨーロッパを横断してからフランスに到着。
まず、ロワール川流域にあるお城で有名なアンジェに行って、語学学校で勉強しました。行ってみたら、上智大学と提携していて、日本人がけっこう多くて、あまり勉強にならなかったですけどね」
語学学校を終えて、いよいよパリの映画学校に通う。住まいはどうしたのだろうか。
「アンジェに行く前に、夏の間パリの大学都市のドイツ館に滞在し、アリアンスフランセーズの外国人のためのフランス語講座に通ったんですが、その時に、和田妃紗子さんという方と知り合ったんです。ご主人はジェトロのパリ駐在をされていた和田久さんです。アンジェでは学校が推薦してくれたご家族の家に下宿していましたが、パリに移ることになって妃紗子さんに手紙を書いたら、うちの屋根裏が空いてるから来たらと言ってくれ、そこに居候させてもらいました。その後、やはりアリアンスで友達になった日本人が帰国することになって、その部屋に代わりに入りました。和田さんご夫妻には後々まで仲良くしていただいて、本当に感謝しかありません」
語学学校でフランス語を学んだとはいえ、フランス人が普通に通う専門学校での勉強は簡単ではない。
「先生は早口だし、生徒たちも何を話しているかわからない。語学学校で学ぶフランス語と生きた言葉の差を感じましたね。映画の技術系の先生の中に、『これから言うことを書き取りなさい』とディクテーションをする先生がいて、そう言われても私は書き取るのがすごい苦手。それでも必死に書いていたら、いつも隣に座るクリスチーヌという女の子が、私が書いた文章を見てゲラゲラ笑って。『あなたが心配だから私のノートを貸してあげる』と、試験の前に貸してもらったけれど、結局そのノートは使わず、クセジュの〈シネマ〉をフランス語で丸暗記してなんとかしました。」
1年目は理論を学び、2年目は編集、演出などから選択する。齋藤さんは編集コースに入り、撮影されたものを編集する技術的なことも学んだ。
「テレビ映画で使われた16ミリフィルムを1シーン分、映像と音のフィルムの断片を渡されて繋ぎ合わせるという実習で、私はリディアというチリ人の女性と組んで1台の編集台を使っていました。」
通常は2年で終了なので、映画制作の仕事に就くために、ラボの研修に行ったほうがいいとか、コネを作ってインターンになるほうがいいなどの情報も耳に入ってくる。他の生徒たちがどうやってプロの世界に入っていくか真剣になっている時、齋藤さんは1年延長することにして、3年目は演出コースに入った。
「フランスで何か仕事があれば就職してもいいなと考えていたところで、母親が倒れたという連絡がきたんです。それで日本に帰ることにしました。」
━Chapitre2に続く━
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者インタビューを手がけ、光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。光文社のウェブ連載「“不実な美女”たち−女性翻訳家の人生をたずねて」 に加筆、書き下ろしも含めた『翻訳する女たち 中村妙子・深町眞理子・小尾芙佐・松岡享子』(エトセトラブックス)刊行。他の著書に『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパク
ト出版会)、編著に『わたしたちの中絶』(石原燃と共編、明石書店)ほか。