著者年譜

O・ヘンリー O. Henry

『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』

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出来事
1862年 九月一一日、ノースカロライナ州ギルフォート郡グリーンズバロに生まれる。本名はウィリアム・シドニー・ポーター(William Sidney Porter)であったが、成人してミドルネームの綴りをSydneyに変えている。
1865年 3歳 母メアリーが肺結核で死去。父アルジャーノンは薬剤師兼医師であったが、発明熱が高じて仕事を顧みなくなる。そのためにO・ヘンリーの養育と教育は主に叔母エヴァリーナ・マリア・ポーターに任せられる。
1874年 12歳 叔母の私塾では戯画などに稀有な才能を発揮する。
1877年 15歳 叔母の私塾での教育を終える。進学を断念して叔父クラーク・ポーターの経営するドラッグ・ストアで見習い薬剤師として働き始める。この頃より文学作品の読書に没頭してディケンズやウォルター・スコットなどの小説に強い関心を示す。
1882年 20歳 気管支系の病気療養のためにテキサス州ラ・サール郡へ。知人のリー・ホール大尉の経営する牧場で働き始める。その間にも文学への関心は深まり、ミルトン、シェイクスピア、バイロンなどが愛読書に加わる。またスペイン語を熱心に独習する。
1884年 22歳 州都オースティンに移って新たな生活を始める。不動産会社に帳簿係として就職する。
1887年 25歳 製図工補佐として土地管理局に勤務する。七月、テネシー州出身のアソル・エスティス・ローチと結婚。「トゥルース」紙に寄稿して、初めての原稿料を受け取り、文筆活動を始める。
1888年 26歳 五月、男児が誕生したが、数時間後に死亡。
1889年 27歳 九月、長女マーガレット誕生。
1891年 29歳 ファースト・ナショナル銀行の出納係となる。帰宅後は「トゥルース」紙、「デトロイト・フリー・プレス」紙への原稿を書き、文筆業にも勤しむ。
1894年 32歳 四月、週刊紙「ローリング・ストーン」を創刊。一二月、O・ヘンリーの銀行資金横領疑惑が浮上。
1895年 33歳 四月、週刊紙「ローリング・ストーン」は売れ行き不振で廃刊。七月、銀行資金横領疑惑は大陪審で不起訴裁定。妻アソルの病状悪化。一〇月、「ヒューストン・ポスト」紙に転職。
1896年 34歳 大陪審において銀行資金横領疑惑の再審決定。横領容疑で起訴される。保釈中の二月、出廷途中で逃亡。
1897年 35歳 一月、妻アソル危篤の報を受けて、中米ホンジュラスでの逃亡生活から帰還。保釈金を追加納入して保釈される。七月、妻アソル死去。
1898年 36歳 3月、懲役5年の有罪判決を受ける。四月、オハイオ州立刑務所に連邦囚人第三〇六六四号として服役。服役中も文筆活動は続けられた。
1901年 39歳 7月、模範囚として3年三カ月に減刑され釈放される。
1902年 40歳 娘マーガレットを義父母ローチ夫妻に託し、ピッツバーグを経て単身ニューヨークへ。
1903年 41歳 「ニューヨーク・ワールド」紙と一編百ドルの契約をして本格的な文筆活動に入る。
1904年 42歳 連作短編集『キャベツと王様』が出版される。
1906年 44歳 短編集『四百万』が出版される。
1907年 45歳 短編集『手入れのよいランプ』『西部の心』が出版される。ノースカロライナ州出身の幼なじみサラ・リンゼー・コールマンと再婚。だが、O・ヘンリーの健康の悪化と経済的疲弊を理由に翌年には別居。
1908年 46歳 短編集『優しいペテン師』『都市の声』が出版される。
1909年 47歳 短編集『運命の道』『選択権』が出版される。
1910年 短編集『厳しい商売』が出版される。6月5日、肝硬変と心臓病による合併症で死去。享年四七。