2011.10.27

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第24回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第24回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 24

食欲の秋である。年を重ねると、やはり和食が好ましく、旅先でも西洋料理を食べることはあまりなくなってしまったけれど、以前はどこにいてもしばしばフランス料理を食べ歩いたものだった。フランスではミシュランの星つきの店にも行った。

あるとき、やんごとなき方々や魯山人も食した鴨料理で知られるパリのトゥール・ダルジャンに出かけた。ワインのメニューを開いた瞬間、思わず飛び上がりそうになった。そこには、「当店のワインはカフェ・アングレのワインを引き継いでおります」と記されていたのだ。

カフェ・アングレは一八〇二年創業。一九一三年に廃業するまで、スタンダールやバルザック、フローベール、大デュマをはじめ、錚々たる作家たちが通った屈指の名店である。されど、私が驚いたのはプルーストゆえだった。トゥール・ダルジャンもそうだが、カフェ・アングレは『失われた時を求めて』のなかで何度か出てくるからである。「スワンの恋」にも出てくるが、「花咲く乙女たちのかげに」で、おいしい料理を作る女中のフランソワーズが、語り手の父親が挙げる他のレストランをけなしたあげく、絶讃するのがカフェ・アングレだった。このけなし方が愉快なのでかいつまんで紹介しよう。

 

「いいえ、わたしはいいレストランと申し上げたのです。ヴェヴェールはレストランではありません。せいぜいビヤホール。テーブルクロスだってないと思いますよ」
「あそこは料理の代わりに、あやしげな社交界の女の人たちを出すんです。若い方にはそれが必要なんでしょう、きっと」

それに対してカフェ・アングレについてフランソワーズはこう言う。「まあ少しは料理のことを心得ている店のひとつですよ。質素ですけど、おいしい家庭料理を食べさせてくれます。たいした店ですわ」

一方、フランソワーズ自身が作るどんな料理も絶品に思われて、読んでいるだけで腹の虫がなる。これもまたプルーストを読む愉しみに数えられるだろう。
(2011年10月20日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

line_lace05.gif cover110.jpg 失われた時を求めて 1 <全14巻> 第一篇 「スワン家のほうへ I」
プルースト/高遠弘美 訳 定価(本体952円+税)