著者年譜

エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe

『黒猫/モルグ街の殺人』

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出来事
1809年 ボストンにて生まれる(一月一九日)。父デイヴィッド、母エリザベスともに旅回りの役者で、この時期にはボストンで出演中。兄ヘンリー(一八〇七生)がいる。
1810年 1歳 妹ロザリー生まれる(一二月二〇日)。
1811年 2歳 母がリッチモンド(ヴァージニア州)にて死去(一二月八日)。このときまでには父が失踪している。エドガーは同地のタバコ商ジョン・アラン夫妻に引き取られ、事実上の養子となる。妹は他家に預けられ、兄はボルティモアの祖父母宅へ。
1815年 6歳 アラン家が商用でイギリスへ行く。スコットランド(アランの出身地)を訪れてから、ロンドンに居住。イギリス滞在をはさんだ時期に、いくつかの私学校で教育を受けているが、ロンドン郊外の「マナー・ハウス・スクール」は、「ウィリアム・ウィルソン」で描かれる学校のヒントになった。
1820年 11歳 リッチモンドへ帰る。
1823年 14歳 級友の母親ジェーン・スタナードに惹かれる。ただしジェーンは翌年に死去。
1825年 16歳 セアラ・エルマイラ・ロイスターと出会い、両家の反対を押して婚約。
1826年 17歳 ヴァージニア大学に入学。アランからの仕送りが足りないと考え、賭博に手を出して二千ドルの損失を出す。この借金をめぐって養父アランと対立。ロイスター家の意向により、エルマイラは別人と婚約。
1827年 18歳 大学を中退し、ボストンへ行って、「エドガー・A・ペリー」という変名で陸軍に入隊。第1詩集を出版。小冊子というべき匿名の印刷物だった。部隊の移動によって、サウスカロライナ(11月)、ヴァージニア(翌年一二月)へ。
1829年 20歳 養母フランシス・アラン死去(二月二八日)。陸軍を除隊し、縁者を頼ってボルティモアへ行く。同地にて第二詩集を本名で出版。
1830年 21歳 ウェストポイント(ニューヨーク州)の陸軍士官学校に入る。養父アランは再婚し、ポーとは縁が切れる。
1831年 22歳 士官学校を出たくなって、わざと怠慢な態度をとり、追放処分となる。ニューヨークにて第3詩集を出版。ボルティモアへ移り、祖母エリザベス・ケアンズ・ポー、叔母マリア・クレム、その娘ヴァージニア(8歳)と同居。兄ヘンリーは間もなく死去。「サタデー・クーリア」誌の懸賞小説に応募するが落選。しかし、これを契機に、翌年「メッツェンガーシュタイン」など五篇が同誌に掲載される。
1833年 24歳 「サタデー・ビジター」誌の懸賞に応募して、「瓶の中の手記」が一等賞金(五〇ドル)を得る。このときの審査に加わっていたジョン・ペンドルトン・ケネディが、貧苦に喘ぐポーを支援する。
1834年 25歳 養父アラン死去(三月)。ポーには遺産を分与せず。
1835年 26歳 ケネディの推挙で、「サザン・リテラリー・メッセンジャー」(以下「メッセンジャー」)誌に寄稿を開始。祖母エリザベス死去(七月)。ポーはリッチモンドへ移る。同誌の編集に参加し、自作の詩や短篇を掲載。ただし創立者にして編集長トーマス・ウィリス・ホワイトは、ポーの飲酒癖と精神不安定を警戒している。十月、叔母のクレム夫人および従姉妹のヴァージニアも、ボルティモアからリッチモンドへ移って、ふたたび同居。一二月、「メッセンジャー」の編集長になる。
1836年 27歳 五月、ヴァージニアと結婚。ポー二七歳、ヴァージニア一三歳。
1837年 28歳 ホワイトと対立して「メッセンジャー」を去る。ニューヨークで職を求めるが失敗。
1838年 29歳 フィラデルフィアへ移る。定職は見つからない。
1839年 30歳 ウィリアム・バートン主宰の「ジェントルメンズ・マガジン」に編集者として参加。同誌に「アッシャー家の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」など発表。
1840年 31歳 第一短篇集『グロテスクとアラベスクの物語』(全二冊)刊行。これまでに書いた二五篇を収める。文芸誌の発刊をめざすが実現せず。
1841年 32歳 二月、「グレアムズ・マガジン」の編集に加わる。「モルグ街の殺人」を掲載(四月号)。
1842年 33歳 1月、ピアノを弾いて歌っていたヴァージニアが血を吐く。以後5年間、衰弱して死に向かう病妻をかかえて、ポーの作品に死と狂気の影が濃さを増す。飲酒がやまない。五月、「グレアムズ・マガジン」の方針を嫌って辞職。
1843年 34歳 文芸誌の立ち上げ、ワシントンで政府部内の仕事さがし、ともに失敗。六月、「ダラー・ニュースペーパー」の懸賞小説に応募し、「黄金虫」で賞金百ドルを獲得。おおいに文名を上げる。八月、「ユナイテッド・ステーツ・サタデー・ポスト」に「黒猫」を発表。一一月、アメリカ詩について講演。好評を博して、同様の催しが続く。
1844年 35歳 ニューヨークへ移る。「イブニング・ミラー」の専属として執筆。
1845年 36歳 一月、同紙に載った詩「大鴉」が評判となる。七月、一二篇を収めた『短篇集』が出版される。「ブロードウェー・ジャーナル」の編集に加わったあと、借金をして同誌を買い取る。旧作の改訂版、書き下ろしの評論などを発表する場とするが、まもなく資金繰りに詰まる。一一月、『大鴉その他詩集』刊行。
1846年 37歳 一月、同誌廃刊。五月、ニューヨーク郊外のフォーダムへ移る。すでにヴァージニアの病状は悪化し、ポー自身も心身の衰弱を押して、「アモンティリャードの樽」「創作の哲理」など執筆。
1847年 38歳 一月、ヴァージニアが結核で死去。
1848年 39歳 散文詩『ユリーカ』刊行。自前の雑誌を持つ夢を捨てず、資金稼ぎのために講演・朗読を行う。年上の未亡人セアラ・ヘレン・ホイットマンに求愛し、いったんは婚約するが、夫人側から破棄される。
1849年 40歳 7月、講演のためリッチモンドへ行く。若き日の恋人で、未亡人になっていたエルマイラと再会して、婚約にいたる。8月、断酒の会に加わる。9月、リッチモンドを発って(27日)、ボルティモアに着く(28日)。地方選挙の投票所になっていた酒場の前で、ほとんど意識を失っているのを発見され(10月3日)、搬送先のワシントン大学病院で死去(7日午前5時)。享年四〇。