怨嗟、愉悦、嘆き......ルソー晩年の内なる声が聞こえてくる。

孤独な散歩者の夢想

孤独な散歩者の夢想

ルソー    
永田千奈  訳   

作品

精神の自由な戯れ、理性と感性の狭間で浮かんでくるさまざまな想い。ここにはあの"偉人ルソー"はいない。迫害妄想に悩まされたのち訪れた平穏のなかで書かれた、ルソー最後の省察。


内容

晩年、孤独を強いられたルソーが、日々の散歩のなかで浮かび上がる想念や印象をもとに、自らの生涯を省みながら自己との対話を綴った10の"哲学エッセイ"。「思索」ではなく、「夢想」に身をゆだねたその真意は? 他作品との繋がりにも言及した中山元氏による詳細な解説が付く。


訳者あとがきより

独り言にしては声が大きい。だが、こちらに話しかけているのかどうか、定かではない。現代の場合、よくよく見れば、なんだ携帯電話、いやスマホで通話中だったのか、となるところである。本書を訳していて、ふとそんな光景が浮かんだ。偉大なる思想家を前に、現代の光景を引き合いにだして恐縮だが、『孤独な散歩者の夢想』には、対話と独り言のあいだを漂っているような印象があるのだ。自分自身との対話、ということになるのだろうか。......

『孤独な散歩者の夢想』うらあとがき/永田千奈

夜のお店に行ったことはないが、ホステスさんはこんな気持ちで働いているのではないだろうか。

ある晩、年配の客がやってくる。客はルソーさんという。店のママさんによれば、「昔はえらかった」人らしい。このルソーさん、愚痴が多い。

「僕ねえ、病み上がりなんです。いや、病気じゃなくてね、転んだんです。犬にぶつかって。そしたら、皆、僕が死んだと思ったらしいんです。ひどいと思いません? 皆が僕のこといじめるんですよ。そんな、人の恨みを買うようなこと、した覚えないんですよ。それなのに......」

水割り一杯で、すでに泣きが入っている。
「僕はねえ、ほんとうに正直な人間で、嘘なんて、一回もついたことない。いや、一回だけあるか。うーん。一回だけじゃないなあ。あれ、ほかにもあるわ。うーん、どうしてだろう」

とぼとぼと考えながら帰っていったルソーさんは、翌晩もやってきた。
「あんた、スイス行ったことある? ビエンヌ湖って知ってる? 知らないよねえ。有名じゃないもん。いいとこだよ。誰もいなくて。ああ、帰りたくなっちゃったなあ。写真もないからさあ、自分で思い出すしかないんだよね」

かくしてルソーさんは何度も店に現れ、一人語っては帰っていく。植物図鑑持参で、ウツボグサについて二時間語った日もあれば、欠けた指先を見せながら、子供時代のけがについてどこか自慢げに話した日もあった。私はそれをただひらすら聞き、「うんうん、そうですよね」などと適当に相槌を打ちつつ、こっそり書きとめておく。
「僕ね、母を知らずに育ったんで、年上の女性(ひと)に弱いんです。昔、世話になったご婦人がきれいな人でねえ。僕が今あるのは、あの人のおかげですよ」
ルソーさんは老いた目に涙を浮かべていた。ハンカチを差し出す間もなく、おしぼりで涙をぬぐうと、ルソーさんは店を出て行ってしまった。


以上は『孤独な散歩者の夢想』を訳しているあいだ、私の頭のなかで繰り広げられ妄想である。その晩をさかいにルソーさんは店にこなくなった。「あの人、最近こないねー」などと言いつつ、私はそれが彼の死を意味していることを知っている。愚痴っぽい爺さんだと思ったが、その言葉にはほかの人にはない深みや重みがあり、今更ながらに、「あの人、嫌いじゃなかったなあ。もっと、お話聞きたかったなあ」などと思う、だめホステスの私がいる。ルソーさん、パンテオン(偉人廟)の住み心地はいかがですか。こんどパリを訪れることがあったら、会いにゆきますね。

ジャン=ジャック・ルソー   
[ 1712 - 1778 ]    フランスの思想家。スイスのジュネーヴで時計職人の息子として生まれる。16歳でカトリックに改宗。家庭教師等をしながら各地を放浪し、大使秘書を経て、37歳で応募したアカデミーの懸賞論文『学問芸術論』が栄冠を獲得。意欲的な著作活動を始める。本書『人間不平等起源論』と『社会契約論』で人民に主権があると主張し、その思想はのちのフランス革命を導くこととなった。主著に『新エロイーズ』『エミール』『告白』など。
[訳者] 永田千奈    Nagata China
東京生まれ。翻訳家。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒。主な訳書に『海に住む少女』『ひとさらい』(シュペルヴィエル)、『女の一生』(モーパッサン)、『孤独な散歩者の夢想』(ルソー)、『ある父親』(シビル・ラカン)、『それでも私は腐敗と闘う』(イングリッド・ベタンクール)、『サーカスの犬』(リュドヴィック・ルーボディ)、『印象派のミューズ』(ドミニク・ボナ)などがある。
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