2018.12.27

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.2 比嘉世津子さん〈スペイン語〉Anecdota2

古典新訳文庫ブログのインタビュー〈女性翻訳家の人生をたずねて〉に、新しいシリーズが加わります。本という媒体ではなく、〈映像〉の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者のシリーズです。字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読いただければ幸いです。

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vol.1の吉川美奈子さん(ドイツ語)に続き、vol.2では、スペイン語の比嘉世津子さんのご登場です。比嘉さんは、衛星放送のニュース、ドキュメンタリーなどの映像翻訳、通訳も手がけていらっしゃいます。さらに、映画の買い付け・配給も含めたラテン・アメリカやスペイン語に関連する会社を20年前に立ち上げた起業家。最近の字幕翻訳作品は、2018年7月公開の『ラ・チャナ』(2019年1月14日23:59までオンライン上映中)
9月公開の『ディヴァイン・ディーバ
(栃木・宇都宮ヒカリ座は2月1日まで、愛媛・シネマ ルナティックは1月12日から)があります。

スペイン語を、なぜ、どのようにして学んだのか。子ども時代にさかのぼっての思い出、外国語との出会い、仕事の遍歴、映像翻訳の面白さ、映画配給事情などをお聞きします。

比嘉世津子さんプロフィールimg_jimaku-higa02_02.jpg

ひが・せつこ 1959年生まれ。関西外国語大学外国語学部スペイン語科卒業。神戸製鋼、日産でのスペイン語通訳業務などを経て、NHKスペイン国営テレビ(TVE)通訳。Action Inc.代表。映画字幕、映像翻訳のほか、スペイン、イタリア、ラテンアメリカの独立系作品の買い付け国内配給を行う。
主な字幕作品:『永遠のハバナ』『グッド・ハーブ』『瞳は静かに』『スリーピング・ボイス』『チリの闘い』『ル・コルビュジエの家』『悪魔祓い、聖なる儀式』『ラ・チャナ』『ディヴァイン・ディーバ』など。

比嘉さんが字幕を手がけた『ラ・チャナ』(監督:ルツィア・ストイェヴィッチ)、『ビリディアナ』(監督:ルイス・ブニュエル) が、アップリンク吉祥寺で上映されます。

アップリンク吉祥寺 見逃した映画特集

構成・文 大橋由香子

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.2 比嘉世津子さん〈スペイン語〉Anecdota1

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.2 比嘉世津子さん〈スペイン語〉Anecdota3

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.2 比嘉世津子さん〈スペイン語〉番外編

Anecdota2 好奇心がいっぱい!メキシコ、アメリカ、ケニアへ

経済学とスペイン語を学ぼうと大学生になった比嘉さん、貧乏暮らしがスタートした。

「時給380円の学生食堂でアルバイトしました。おかずは1品だけど、ご飯は食べ放題なので助かりました。住処は、みゆき荘という、おんぼろアパートです。ほかの部屋は4畳半なのに、私の部屋だけ3畳1間で、友だちに『独房みたい』と言われました(笑)。
貧乏だけど、本は読み放題だし、自分の好きに生活ができて最高でした。関西外大は、スペイン語の先生も半分以上はネイティブで、日本的な空気じゃないのが何より良かったです」

 

大学を受け直そうかという迷いも吹き飛び、文部省(当時)関連の公費留学試験を受けて合格、大学4年の夏からメキシコに留学した。

黒沼ユリ子さんの『メキシコからの手紙〜インディヘナのなかで考えたこと』(岩波新書)を読んで、「自分の中に、確固たるものがない」と感じる。そして、卒業論文のテーマに先住民の復権運動を選んだことで、留学するならメキシコと決めていた。

「自分は何者なのか、日本人とも違うが、沖縄のアイディンティティもない。卒論はそれで書こうと考えました。メキシコ人も、植民地時代の宗主国の言葉であるスペイン語が少しできるようになると、生まれた所から都会の街に出てしまいます。沖縄と共通点があるかもしれないし、彼らのアイデンティティはどうなっているのかにも興味が湧きました」

 

今から40年近く前のメキシコ、しかも留学先のケレタロ州立自治大学は、首都メキシコシティからバスで2時間も離れている。当時は、日本人も含め、外国人が住んでいない田舎だった。女子学生がひとりで行くことを心配する声もあったが、好奇心がいっぱいの比嘉さんは、怖さを感じなかった。

「驚いたのは、メキシコに行ったら、日本で勉強していたスペイン語と違うこと。私が勉強していていたのは、征服した側であるヨーロッパのスペイン語でしたが、メキシコの人たちが話すスペイン語は、イントネーションや言葉遣いなど、ちょっと違うんです。
日本にいるときから、唯物史観じゃないとメキシコ社会は理解できないと言われて、日本語訳でマルクスの『資本論』や『経済学批判』を読んでいましたが、留学中はマルクスもサミュエルソンもスペイン語訳で読みましたね」

 

もちろん、大学の勉強以外も忙しい。

大学の学生やOBで作る男子だけの伝統的な音楽グループEstudiantina(エストゥディアンティーナ)はイケメンがいっぱい。面食いの比嘉さんは、「やりたい、私も入れて!」と門を叩いたが、「男しか入れない」と断られる。

「いいやん! 外国人なんだから」とスペイン語で交渉した結果、なんと例外的にメンバーに迎えられた。高校時代に少しやっていたギターを猛練習して、El Bachiller,DeColores,Claveritos,,Viva el Amor などを演奏した。

「Estudiantinaの起源は、スペインのTunaで、ケレタロ州立自治大学では1962年から活動しています。これは51周年目の動画で、最初に歌っている曲はEl Bachillerでオリジナルのテーマ曲です。街を歩きながら歌い、パーティだけではなく、セレナーデや公共の場でも演奏します」

 

「イケメンのみんなと演奏するのも楽しかったし、パーティーでちゃんとしたお料理を食べられたのも魅力でした。月5万円分の奨学金はドルで払われていましたが、当時は1ドル=10ペソ、大半は下宿費に消えていました。それがペソの大暴落でドル口座が凍結されたので、生活が大変だったんです」

 

そんな時、知り合った芸術学院の先生に、お昼ごはんを食べに行こうと誘われて彼の家に行った。

廃棄された古い列車の車両に人々が住んでいて、ひとつの車両を2家族が分けて住んでいた。彼の妻は乳飲み子を抱えている。「卵が1個しかないけど、きょうはそれを3人で分けよう、あしたになれば、またなんとかなるさ」と言って、ご馳走してくれた。

「自分もそうありたいし、こういうふうに分かち合って生きていきたい、と思っちゃいましたね。自分だけ良ければいいという守りの姿勢になると、逃げていってしまうもの、見失ってしまうものがあるのではないでしょうか」

 

一方では、「私は地球の中心、私が世界」というような態度に、「へー⁉︎」と驚いたのも事実だ。

しかし、物おじしない、めげないメキシコ人の態度から大いに学んだ。

「小学生の時は、『どうやったら透明人間になれるか』と考えていたくらい辛かったのが、中学に行ってちょっぴり楽になり、中学よりは高校、高校よりは大学と、少しずつ楽になっていきました。そして、メキシコが私の目を開かせてくれました。なんにも怖くなくなったし、ホントにもう、日本に帰りたくなかったですね〜」

 

就職に失敗→アメリカで英語を学び人と出会う

しかし、帰国しないと卒業できないため日本に戻った。

大企業や役所関係の求人を大学から紹介され就職試験を受けたが、ことごとく落ちてしまう。

「途中まではいいんですが、最後の面接でダメになるんです。猫かぶって、それらしいことを言えないというか、つい議論してしまうんですよ。地を出さないでいると体に悪いというか......。
せっかく私が働いてやろうと思ったのに、いらんのかい? と腹も立ちましたが、どこかで居直っていましたね」

 

卒論を書き終え、昼はペルー料理の店で、夜はスナックで働いてお金を貯め、アメリカに行くことにした。当時、スペイン語を使う仕事を関西で見つけるのは難しく、英語もできなければ喰っていけない、今ならアメリカに住めば半年で習得できると思ったからだ。

大学の先輩が、デンバーのコロラド州立大学と提携しコロラド州ドゥランゴにあるフォートルイス・カレッジで、日本人留学生向けの準備講座をしていた。アシスタントが必要だということだった。

「 "ここではない、別の世界"に行けるなら、どこでもよかったのかもしれません。無給でしたが、寝泊まりする場所と食事が出るし、好きな夏期講習を受けても良かったので、悪い条件ではなかったですね。
そこでもまた、いろんな人との出会いがありました。木こりでもあり社会学者でもある面白い教授がいて、若い頃、平和部隊(Peace Corp)でアルゼンチンに行った人で、スペイン語が話せたのです。
彼の娘と私が同い年。手作りの小屋に住んで、電気もガスも使わない生活をしていました。教授が、コロラド州立大学の大学院でラテンアメリカ研究ができるから紹介してあげると、娘たちと一緒にトラックに乗ってボルダーまで行ったことがあります。夜は山中にトラックを止め、荷台の干し草の上で眠る。その時に見た満天の星は忘れられません」

 

その後、教授の甥の紹介でデンバーでホームスティをしながら、少林寺拳法を道場で教えたり、ブラジル人に日本語を教えたりした。比嘉さんは神戸での大学生時代、町の道場で少林寺拳法を習っていたのだ。

コロラド州立大学の大学院に進学する話もあったが、問題は授業料だ。

援助を求めて母親にコレクトコールをしたら、「それでなんか、ええことあるの?」と言われて、答えに窮し、あきらめてしまった。

このアメリカ滞在中に旅行をして、いろいろな国の若者に出会った。

ユースホステルで同宿したイスラエル人、ドイツ人、ベルギー人、オーストラリア人と意気投合。社会問題も含め、異なる意見を主張し合う様子は、日本の学校での風景と、あまりに違った。

「23歳の時ですから、エネルギーがあり余っていたんでしょうね。10か月の滞在を終えて仕方なく日本に戻って来て、英字新聞で見つけた通訳の仕事に応募して、今度は採用されました。
新卒採用と違って、実際に外国人とコミュニケーションがとれて、少々のことがあっても泣かずに対処できる人間を求めていたんじゃないですかね」

 

神戸製鋼の専属の仕事で、プラントがあるリビアから日本に来ている研修生の通訳だった。メキシコ留学やアメリカ滞在中も、アルバイトで通訳をする機会はあったが、この仕事でさらにビジネスの場での通訳のノウハウを身につけた。

その後は、メキシコ日産の専属通訳を経て、JICA(国際交流機構)のコーディネーターやイベント制作会社で、スペイン語も使う業務に携わる。

そして、パートナーに出会って結婚。彼の赴任先であるアフリカ・ケニアに住むことになった。

最初は語学学校でスワヒリ語を学び、ナイロビ大学大学院の文学部でアフリカ文学やカリブ海文学を学び、新たにできた演劇学校では即興芝居をして、アフリカンダンスを踊り、ジョモ・ケニアッタ工科大学で少林寺拳法を教えた。

だが、駐在員の妻という立場には、砂を噛むような不自由さがつきまとったという。比嘉さんは離婚を選ぶ。

「すべてを失って」帰国したのが30歳の時。

ここで比嘉さんは、ケニアで始めた芝居の世界に向かっていく。ワークショップに通い、女3人で劇団を立ち上げた。

芝居のために通訳・翻訳→映像翻訳との出会い

劇団で芝居をやるためには、お金を稼がなければいけない。そこで、エージェントや翻訳会社に登録して、通訳と翻訳の仕事をした。

「日本語から英語、英語から日本語のビジネス翻訳は安いので、とにかく数をこなさないと食べていけませんでした。それに比べると、英語とスペイン語の間の翻訳は、金額がよかったので助かりました」

 

コンピュータやマニュアル関係の翻訳は、わかりやすく明確な言葉で表現するのが大事。そのためには、機械の仕組みも理解しないといけない。疑問点は直接、工場や技術者に確認することもあった。専属通訳を含めて、これまでの仕事での経験が、さまざまな場面で役に立った。

通訳と翻訳の仕事をしているうちに、映像翻訳の仕事がやってきた。きっかけは、1992年のスペインで開催されたバルセロナ・オリンピックだ。

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グエル公園からのバルセロナ市街(画像提供:ピクスタ)

映像の同時通訳、ボイスオーバー(原語と共に、訳した日本語も流す手法)、テロップの翻訳など、スペイン語から日本語への仕事が大量に発生した。

比嘉さんもテレビ局のオリンピック中継の関連仕事を手がけるようになる。

その後は、NHKのBSニュース(スペイン国営テレビ)通訳のほか、民放の映像翻訳の仕事もするようになる。

それまで手がけてきた翻訳・通訳と、映像翻訳とは、どのあたりが違うのだろうか。

「一般の翻訳は文字を見て文字にしますが、映像は誰かの声を聞き取って翻訳するので、2Dから3Dになった感じです。読む力と聴く力の違いですね。
映像翻訳では、キーワードがスッキリ聞きとれない時が、いちばん苦しい。翻訳なら、文字で読めるし、通訳なら、一度聞き取れなくてもキーワードは繰り返されるし準備もしているので、あまり困りません。
でも、映像翻訳は、地元の人の早口やなまりがあるし、複数の人が一度に話す場面や、騒音の中の声もあるので、"耳"が命になります」

 

そのうち、映画祭関係のスペイン語通訳の仕事がくるようになった。主に、ラテンアメリカ諸国の映画監督や俳優の通訳だ。

「考えてみれば、中学生の頃から映画は好きで、スペイン語を学んでからは、なぜスペイン語圏の映画はあまり日本で紹介されないのか疑問に思っていましたから、映画祭の仕事は楽しかったです」

 

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『ジェームス・キャメロン 映画と人生』
(クリストファー・ハード著、
1999年、愛育社)

そして、映画関係の本も翻訳した。

『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち:シナリオ対訳』(マット・デイモン、ベン・アフレック著、1998年)と『ジェームス・キャメロン 映画と人生』(クリストファー・ハード著、1999年、ともに愛育社)だ。

2冊とも締め切り期間が短く、ニューヨークにいる友だちに、わからないことを国際電話で尋ねたため、電話代が高くついた。メールやラインが身近になった現在からは、想像できない苦労である。

夜もほとんど寝ないで取り組み、生の脚本や映画の面白さにひたる体験だった。

(続く)

 

今月のオススメ!@スペイン語&ラテンアメリカ

インスティトゥト・セルバンテス東京

スペイン政府が、スペイン語とスペイン語圏文化の普及のために設立した文化施設。
最寄り駅は、四谷、麹町、市ヶ谷という便利な場所で、語学講座、文学ワークショップ、子供のための読み聞かせ、写真展など、スペイン語の世界が繰り広げられている。

グラナダ出身の作家、フェデリコ・ガルシア・ロルカの名前を冠した図書館には、文学やスペイン語学習書はじめ、スペイン語関連書、スペインの他の公用語の資料もある。(図書館は無料で利用可。貸し出しには会員登録(有料)が必要)。

スペイン語の無料体験レッスンもあるので、トライしてみたら?

1月18日まで、スペイン人映画監督・脚本家・プロデューサー
イサベル・コイシェ写真展『フェイス』を開催中。

1月スタートの文化講座は、カロリーナ・セカのアートセミナーがある。

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インスティトゥト・セルバンテス東京

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。